揺りのニュアンス
尺八の揺りはいわゆる洋楽器のビブラートとは本質的に役割が違うのではないか。
尺八の揺りの方がはるかに多くのニュアンスを含んでいる。
洋楽器的なビブラートが音楽を彩るものであるならば、尺八のそれは音楽そのものに近いと思う。
楽譜では音の高低、長さは表せるが、この揺りのニュアンスというものをきちんと表せる楽譜はないだろう。
これこそが師匠につく面白さかもしれない。
師匠と吹き合わせを何度も繰り返すことによって、揺りのタイミング、ニュアンスといったものが身に付いてくる。
ゆりは単に音の高低、大小ではない。その膨らみ方、減衰の仕方のちょっとした工夫で伝わる音楽が変わってくる。
今、韓国でテグムを習っていて比較してしまうのだが、この激しい揺りというのも魂そのものというか、尺八以上に揺りが音楽そのものになっている。
揺りの中に運指があるといった感じである。
尺八でも奥州系の本曲にはこの雰囲気のものがあり、共通点を感じる。
この揺りはあきらかに人間の歌のこぶしを写したものである。
人の嗚咽であったり、喜びであったり・・。尺八の揺りも本来はそんなところに起源があったのかもしれない。
尺八の場合、日本人の民族性からか、そういった感情の発露といったことまでやってしまうとちょっと下品に思われるのでもう少し大人しい所におちついているのかもしれない。
話を戻そう。
尺八において揺りは、音楽の大きな位置を占めている。
しかも、きちんと習っても、個性がやはり出てしまう。学んだことと自分の人間性が混沌としたところに自分の尺八音楽が生まれてくるのかもしれない。
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