2011/05/22

プロを育成するということ

またしても今学んでいるテグムの話。

今日、練習場に行くと、高校生3人が来ていた。
彼らはここから2時間くらい離れたところの芸術高校の国楽の専攻の私の師匠の弟子である。
来週土曜日に行われる全国の国楽(韓国の伝統音楽)のコンクールに高校の部で出場するという。

皆、かなりのレベルでコンクールに出るだけあり、演奏の完成度も高い。
各自、練習しているのだが、それなりに緊張しながらやっていた。
正直、私にはみんな出来上がっていて、本当にすごいなあと感心するばかりであった。

師匠も顔をだし、皆を集めて吹かせる。
私は自分の練習もそっちのけでそれに聞き入っていた。
やがて師匠は学生の演奏を止め、厳しい顔でかなり強い調子で注意をし始めた。
具体的に何を注意されていたのか、よくわからなかったが、練習にとりくみ姿勢について言われていたようだ。
普段、私には見せないようなかなり厳しい顔で、1時間ほど、話が続いた。
学生は神妙なものである。
その後の練習はピリピリとした雰囲気が伝わってきた。

その後、学生達は食事をしに行き、私の稽古になったが、師匠は、先ほどとは全く違う、いつものにこやかな顔で私のへたくそな演奏を見てくれた。
同じミスをしようとも前回指摘したことが曲の中でできていなくとも、ていねいに注意してくれた。

やはりこれがプロになる人と趣味でやっている人との違いなのだろうと思った。

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2011/04/03

壁にぶちあたる、

テグムの稽古も1年半以上たったがここにきてまだテグムの音が出ない。
「まさとしさんの音は尺八の音ですねえ」
いろいろ吹き方を教えてもらうが、いっこうに改善しない。
尺八でも乙ロは初心者には難しい音であるがテグムは管が細い分もっと大変である。
これをきちんと鳴らすのはなかなか難しい。
まず息が入らない。
中に音を満たすように暖かい息でと言われるのだが、小さい音なら出るがそれを膨らませることができない。
師匠はやはり十分な息を使ってびしっと低音域を鳴らす。
高音域は唇が閉まってしまって自由がきかない。
だんだんスカスカになってくる。

前はもう少しましだったと思うのだが最近、どんどん鳴らなくなってきた。
焦りといら立ち、本当にやる気がなくなってくる。

それで今週の宿題。
「今週は曲の練習はしなくていいです。林(すべてふさいだ乙ロ)のロングトーンを続けて30分やってください。その後少し休んでまた30分。これで1日、1時間、できれば2時間やってください。30分の間は音が出ても出なくても絶対休まないでください。」

音が十分に出ない所で30分、息一杯に吹ききるのはかなりきつい。
昨日、今日とやっているが・・・・20分くらいで休んでしまった。
曲を吹かないというのもストレスになる。
きついだけでなくこの単調さは、たしかにつまらない。

これを乗り越えられるだろうか。

どんな楽器も楽器本来の音を出してこそ、曲がある。
楽器を十分に鳴らす、そのシンプルなことが一番難しいと気づくこの頃である。


尺八は、どうだろうか、できていないような気がしてきた。

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2011/03/10

尺八のプロの要件

尺八に限らずだが音楽のプロの要件とはなんだろうか?

「一番条件の悪い時に最低限のレベルの演奏が、お金を取れるレベルの演奏家がプロである」
これは私の父が昔よく言っていたことである。
父もたぶん誰かの受け売りだと思うが。

尺八の世界、プロよりある分野ではうまいアマチュアはいる。
囲碁将棋の世界と違ってプロとアマの実力に連続性があるというか、比較的小さいかもしれない。
よく練習をしてこの一曲に打ち込んだアマチュアは普通に吹いているプロよりも魅力的な演奏をすることがある。

しかしそれでもプロはプロである。

父のいうように条件の悪い時にどのレベルの演奏ができるか、それがある意味その人の持つ実力ともいえる。
アマチュアはうまくいかなかったとき、言い訳ができる。
「風邪を引いていて、鼻が詰まっていてうまく吹けなかったんだよね・・・」
「ステージが暑くてさ・・・・」
プロはそれが続けば次の仕事がなくなるだけである。

違う言い方をすれば、「どんな演奏をしても飯を食える演奏をする」ということかもしれない。
昔の虚無僧で生計を立てていた(?)人は、托鉢でもらえなければ明日の飯がない。
尺八を「ツレーツレツレー」ではなく「くれーくれくれー」と吹いていたというのは一朝軒の和尚さんの話。
うまいとか下手ではなく「尺八で飯を食う」というのは要件の一つのように思う。

「私はプロだから、仕事で頼まれれば歌謡曲でも詩吟でもなんでも聞かせるレベルでやる」というようなことを郡川さんが言っておられた。

琴古流では、少し前まではプロという言い方をせず、「専門家」と言っていたように思う。
尺八で生計を立てる「専門家」は流の中でもごく選ばれた人であった。
尺八は素人芸がほとんどの中での「専門家」というのはかなり重要な責任があったろうと思う。
この言葉は気に入っている。

さて私はアマチュアの道を歩んでいる。
一時、プロになりたいなどと少しだけ考えたこともあったが、周りの実力をみてすぐに思いとどまった。
アマチュアの良さは自分の好きなことを深められることである。
「誠実に」私が縁あってであった本曲をアマチュアとしてプロのたどり着けないところまで掘り下げていこうと思う。

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