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2006/02/26

現代邦楽曲の「歌」

今日、宮城道雄の「若水」の下あわせをさせていただいた。
宮城曲というのは独特の世界があって、時代の雰囲気もあり、古曲の世界とは違いながらもその匂いは失っていないという微妙なバランスがあっておもしろい。

さて、本来地歌、筝曲というものは段物を除けばいくら手事が拡張されたとは言え、山田流といわないまでも基本的には歌が主で器楽が従であるように思う。主従というより表裏というか、一緒にくっついている印象がある。
宮城道雄の曲が「微妙なバランス」があるといったのはここの所で宮城道雄は「歌」が重要であることをまだ認めていた。そして歌がどういう方向を目指すべきか模索していた。
合唱のような形は取り入れられないか、西洋の歌曲的な形は取り入れられないか、古曲の歌い方を展開できないか・・など。
宮城の後の世代の多くはこの「歌」という非常に重要な要素にほとんど背を向けている。
今の現代曲と呼ばれるものには歌物がほとんどない。
これはやはり、洋楽の発声(もどき)でやろうとしたとき違和感が生じ、古曲の発声では新しい器楽としての旋律にあわなくなってしまう。なんとも邦楽の歌は居場所をなくしてしまったのだ。
これからそうした唄を考えるに当たって少し前の試みの中にヒントがあるような気がする。
鈴木鼓村の筝唄はどうだろう。古川太郎の曲はどうだろう。
現代では池上真吾さんの「風邪薬」など現代の歌物の試みをされているものがあり、おもしろいと思った。筝・三絃の世界ではもっともっと今の音楽の中でも「歌」を生かす試みをもっともっとしてほしいと思う。(尺八はそればかりは無理・・・)歌を放棄することは、邦楽の魅力を半減させることだと思っている。

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