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2006/08/24

「密息で身体が変わる」を読むとムクムク沸いてくる疑問

尺八演奏家、中村明一氏の「密息で身体が変わる」を読んだ。
本を買ったのは少し前であったが斜め読みをしたきりになっていた。
氏の古典本曲については正直あまりよい印象をもっていないため、多少の色眼鏡で見ているところもあるかもしれないが、いくつか疑問がわいてきた。

P.21「海童道の呼吸は特別でそれは「密息」と言われていたということ。ただ書かれたものは何一つ残っておらず具体的なことは誰も知りませんでした」
まず「密息」という言葉を中村氏は海童道祖の呼吸であり、伝承されているものがおらず、博多一朝軒磯先生に学び、それが日本人の本来持っていた呼吸であろう、と結論つけている。
まず海童道祖は「密息」については話しているが、「常息」との関係において尺八を吹く場合の息の使い方の一つとしてあげていると思われる。それが少なくとも日常の呼吸法という意味ではなさそうである。
「誰も知りませんでした」とあるが、海童道の現存されている直接の弟子であれば、知らないことはないと思われる。
一朝軒の磯先生には私も呼吸の話を聞いて得る所は非常に多かったが、私は決して「密息」を意識しての話ではないように思える。

「腰を落とし(骨盤を後ろに倒し)」ている状態が日本人古来の呼吸の姿勢という記述があるがどうも納得できない。これは俗に言う「ばばあの日向ぼっこ」状態であり、力のでる姿勢ではない。(この状態で重いものを持ち上げればぎっくり腰になりやすい)
腰を緩める姿勢は存在するが、力が必要なときは明らかに「腰は反す」姿勢である。
侍がとても腰抜け状態で歩いていたとは思いにくい。座禅をするときにも腰をゆるめた状態できれいに見えるはずがない。
呼吸をするための方便として一時的に緩めることはあるかもしれないが、その姿勢が常態であるというのは信じがたい。
腰を反したときに無理な力が入らないように緩めていくということは必要であり、それを支える筋力が必要であるということはあると思う。
とてもこの本を読んで、この呼吸法がマスターできるとは思われない。

胸式呼吸、腹式呼吸の記述も誤解が多いように思う。
「胸式呼吸をあえて選ぶソプラノ歌手がいる・・・」
あくまでも横隔膜での呼吸の上に胸を高くとって胸の共鳴を使っているだけだと思うのだが。
胸だけの呼吸で長いフレーズを続けられる歌手というのはまずありえないだろう。

「日本語という言語も実は倍音の宝庫であった」
何をいっているのかさっぱりわからない。
非整数次倍音なる言葉を使っているが、それでは「倍音」ではないのではないか・・・そんな言葉そもそも自己矛盾しているような気がする。
日本人が音の趣味として、三味線のさわりのようないろいろな周波数の交じった噪音的なものを求めるということはわかるが、「日本語が倍音の宝庫」ってのは一体どういう意味なのか。日本語で話す言葉の音という意味にしてもそれほど日本人がノイジーな発音をしているとはとても思えない。(西洋の人に比べて発音自体が平べったく、響きがないということはあると思う)

いろいろ読んでみると、科学的な表現をしようとしている割におかしな箇所が多い。
日本人の呼吸についての視座は大変良いと思うのだが、半端な理屈から「密息」を日本人の呼吸全般に、拡大解釈し、日本文化、日本人論を語るに至ってはホラに近いものがある。

そもそも中村氏自体本当に自身の言う「密息」を実践できているのだろうか、演奏を聴く限りはなはだ疑問である。


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コメント

ジュディさん
ずいぶん昔に書いたコメントでしたが改めて読んでみました。

>:「日本語という言語も実は倍音の宝庫であった」
:何をいっているのかさっぱりわからない。

>日本語の表現方法が非整数次倍音を使うと言っています。それに比べ、西欧は音量が表現方法の主たる要素であることを言っています。

私の理解では操音などにつながる子音が一音ごとにあるので非整数次倍音がひとつの単語について豊富というような意味と解釈しました。
倍音に非整数次も含まれるというのはそうですね。
ただそうすると、西洋の言葉は倍音の少ない「純音」に近いものということなのかな。

わかりにくいのは森進一などの声が非整数次倍音が多く日本人好みという話と日本語そのものがそういう構造をもっているという話。
前者はオペラ歌手的なものは確かにちがうかもしれませんが、ジャズ、POPSではそういう趣味は洋の東西をとわずあるような気がします。

なんば歩きなどは一時古武道関連の体の使い方がよくとりあげられたときに出てきていたと思います。
そこまではわかりますが、江戸時代の人がみな、彼の言う「やくざのような」腰を落とし、首を出していた状態で生活をしていたわけではないと思われます。
少なくとも座禅、武道、茶の湯、礼法の世界などでは腰を返し、背骨の上に首をのせ安定させる姿勢で体を緩めることを要求されていたと思います。それを前提にしないと現在の伝統芸能といわれるものがすべて崩れてしまう。
(庶民の生活はもちろん腰をゆるめた生活も当然あると思います)
このあたりが私の考えと中村さんと決定的に違うところかもしれません。

私の理解の足りないところもあるのかもしれません。

投稿: ろめい | 2013/03/31 22:42

連稿失礼します。

:「日本語という言語も実は倍音の宝庫であった」
:何をいっているのかさっぱりわからない。

失礼ですが、よく読めば分かります。日本語の表現方法が非整数次倍音を使うと言っています。それに比べ、西欧は音量が表現方法の主たる要素であることを言っています。例えば「助けて」を母音主体で大声で言っても、相手には、その危険度が伝わりません、ふざけているように聞こえると思います。それから、非整数次倍音も倍音ですよ。

投稿: ジュディ | 2013/03/31 15:04

今更ですが、最近この本を読んだ者です。「密息」という言葉が文献に有る訳ではないのですね。ただ、江戸時代まで日本人はナンバ歩きという右手と右足を同時に、左側も同様にして歩いていたそうです。その歩き方ですと膝は曲げないと歩けない(ヨガにも膝をまげるリラックス法が有ると聞きます。)
上下動が少なく着物に適している歩き方とも思います。また、忍者の忍びの術にも適している合理的な呼吸に感じますが、日本人古来と中村先生が言う「密息」なる呼吸法は存在しないのでしょうか?

投稿: ジュディ | 2013/03/31 14:46

中村さんの本は出版されてすぐに半分くらい立ち読みしましたが、別にホラを吹いているのでも、人を騙そうとしているのでもないように思いました。ご自身は正しいと信じている。

冒頭から事実誤認に立った空想的な理論が展開されていて読み進むのに辛いものはありますが、ひるがえって、多くの師匠や偉い先生にしばしば見られる、客観的な観察や論理的な議論を受け付けずに「伝統」に逃げたり感情に走る習慣を思えば、むしろ、この中村さんの本は現在の尺八のレベルを如実に反映していると言えるのではないでしょうか。
たまにネットで見かける、中村さんへの極端な罵詈雑言や人格を否定するような侮辱的な発言も、同じ孔のムジナと言うべきでしょう。

「密息」については健康被害を心配していたのですが、それほどのことも無いようなので安心しました。
以前、ネットで検索した感触では合気道だか古武術だかの文献にある密息の概念をそのまま持ってきている印象があったのですが、今、そのサイトは見つけられませんので確かなことは申し上げられません。

さて、中村さんは「密息」について、大量の息をすばやく吸うことのできる方法だと書いていたように思います。ところがご本人の演奏は特別そのようには見えません。これは、ホラをふいているのではなくて、ご本人は、実際にそのように体感しているのではないでしょうか。
骨盤を倒した状態(良くない姿勢)で息を吸うと、息が深く落ちていくことができないので、腰を圧迫します。呼吸のトレーニングがなされていない段階でこれを経験すると、この抵抗感を正しい支えだと誤解してしまうのは良くあることです。
自分の音を自分の耳でチェックしていれば、しぜんに間違いに気づくものですが、中村さんは、コンピュータで倍音成分を分析して音作りをしていると、新聞のインタビューで語っていました。これでは間違いに気づくことはできません。
要するに、トレーニングを積まないでも良い呼吸ができる神秘的なすごい理論を中村さんは知っていると信じて、「密息」と名づけたのでしょう。

春にNHKの朗読番組で、中村さんが尺八を付けているのを見たのですが、「虚霊」の構造をそのまま全音階に移したような自作曲吹いていました。名曲をドレミに移せば現代的な名曲が生まれると考えたのでしょうか。

中村さんの勘違いは、理論があれば自動的に尺八が吹ける、音楽が作れると考えたところにあると思います。
音は自分の耳で聞き分け、音楽は心で求めるものだと思うのですが、これを中止して理論に頼れば、その時点で音楽が死んでしまうのは当たりよく前のことです。中村さんは音楽よりも理論がお好きなのでしょう。

世間によくある、すぐに上達できる秘密の奏法や合理的な練習方法、表現力を付けるこつ、それから「密息」などといった、諸々の理論。
これらは短期的には上達したような実感を与えてくれる場合もありますが、実際には足かせにしかならないということを、私たちは良く考えてみる必要があると思います。理論に頼った瞬間に、音楽は理論に席を譲ってしまうということ。
その上でお好きなら、人それぞれということです。

私のつたない経験ですが、上手くなりたいという思いは、仮にそれで上達したとしても、必ず音楽を汚い、濁ったものにしてしまいました。上達したいと願って機械的な練習したり理論を求めることと、音楽を求めて練習に工夫を重ねることとは似ているようですが、全く違うことだと考えています。
そもそも、簡単に上手くなってもつまらない。折角の練習する楽しみや発見する喜びが無くなってしまうのですから。

投稿: ペリー | 2006/08/31 03:49

よくその本をお買いになりましたね。発売された時に本屋で立ち読みしようと思い探したけど無かったのでそのまま忘れてましたよ。

投稿: しんた | 2006/08/25 23:00

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