« 「密息で身体が変わる」を読むとムクムク沸いてくる疑問 | トップページ | 発音の悩み »

2006/08/29

誰に習った?

いろいろな人の本曲を聴くが、最近はどうにも誰にも似ていない本曲が多すぎる。
自分の習ってきたものが正当だという気はない。それにしても、自分勝手な本曲が多すぎる。
真面目に本曲を勉強している人の方が、自分勝手に吹いている人より、素人目(耳?)にはうまく聞こえるのかもしれない。真面目に学ぼうとすればするほど、自分の思うようには吹けないわけで、不自由に聞こえるのかもしれない。そういう人が評価されないというのはおかしなことである。
本当の芸の力というものを見られる人が少なくなってきているのかもしれない。

それにしても今聞ける演奏で、品のある演奏の少ないこと。はったりじみた演奏のなんと多いこと。
海童道はたしかに張ったりもあったろう。しかし、そこには恐ろしいくらいの技術の裏づけと本曲そのものの理解があった。今の海童道もどきの人はどうだろう。道曲の元の本曲も知らず、道曲をわざわざ古典本曲という始末。
よほど勉強が足りない人が多いように思う。
本曲というのは本当に悲しいほどにその人の人間が出てしまう。

名古屋にOさんという人がいる。毎回本曲会では「虚鈴」を吹いている。
うまいとか何とかより、淡々とした吹きっぷりが私は好きだ。
私はこう学んだ、という雰囲気が伝わってくる。去年の「虚鈴」そして今日の「虚鈴」。そのときのその人が伝わってくるのでいつも楽しみにしている。

やはり本曲だけは、「誰に習った」ということにこだわりたいと思う。

|

« 「密息で身体が変わる」を読むとムクムク沸いてくる疑問 | トップページ | 発音の悩み »

コメント

どうも方向を間違えてしまった。
誰に習ったかということも非常に大切ですね。
習うのも一人の師匠に固執してしまうのが良いのかどうか。
私は複数の師匠に習うのも勉強のひとつと考えています。(現在正確に言うと3人目)
正統論ではありません。一つの曲でもいろいろな吹き方があり研究に値すると考えます。
その中で自分の理想?にかなった曲を吹くようにしています。
習うということは本当に大切なことでこの中に伝承された曲が生き続けているのだと思います。
いつの時代もそうですが自分が教祖になればそこが始まりなんですけどね。

投稿: 沈魚 | 2006/09/03 13:13

沈魚さん
コメントありがとうございます。
古典本曲の正当か、どうかという議論はあまり実がないと思っています。
言われるとおりあくまでも音楽が先、楽譜が後、の成立過程をたどっていますから、楽譜で固定するというのはある一時点でのある形を作ったにすぎません。(それとても楽譜が音楽を再現しているということはない)
しかし、そうかといって何をやってもよいというものではない。民謡であればいろいろ変わっていき、人による個性はあるもののある常識的な範囲はあり、芸能の生命がある限り、自然淘汰されると思う。(無茶苦茶やるものについては自然に排除される)尺八界はとても萎えていて、自然淘汰のメカニズムが働かなくなってきて、自分勝手にやっても学者のお墨付きをもらえばOKみたいな感じになっている。
私は唯一のよりどこころは「誰に習った?」という視点だと思っている。
ある1回の録音を聞いてコピーした音楽と、「習った」音楽では必ず違うと思う。
本曲の行間を伝えるのはそれしかないはず。
正統論争は私も嫌いです。

投稿: ろめい | 2006/09/03 09:36

古典本曲を知らない?
昔から伝承されている曲が古典本曲でありその伝承曲が正しいか正しくないかという議論はおかしい。
そもそも古典本曲に正統も何もない。民謡と同じです。
正調とウタイ、自分のやっていることが正しいという優越感しかないのではないか。
昔の人はこれが本当の曲ということは伝えていない。
譜面が出来て初めて固定化?された。
ここはこう吹くというのは譜面を書いた作者の主観が入ったものである、その主観も伝承されたものかもしれないが正統とはいえない。
従ってあの吹き方はおかしい、とか古典ではないという考え自体が可笑しい。

投稿: 沈魚 | 2006/09/03 06:29

本曲等の呼称について
国際尺八研修館発行の楽譜の袋には「尺八古典本曲」と印刷してあります。
現在、直系意外で「海童道曲」と称して演奏しているグループはあります。それは田嶋さん社中です。
私の考えでは、道祖が印可した者のみが「海童道」を称する資格があり、それ以外の者は単に本曲と言うべき、ということです。

投稿: しんた | 2006/09/01 16:35

Toorak さん。
面白い視点をいくつもいただきました。
のんびりと細かい議論を重ねると楽しそうなのですが、ツリー形式でないと混乱してしまって無理なのでしょうね。

ろめいさん。
地道にこつこつと練習するのが一番の近道なのですから、ろめいさんの評価だけでなく、そういう方は必ず時間が評価してくれると思います。
それに、素人といっても、聞いている人はちゃんと聞いているものですよね。

投稿: ペリ- | 2006/09/01 13:23

コメントありがとうございます。

ペリーさん
真面目に本曲を勉強している人より、
自分勝手に吹いている人の方が、
素人目(耳?)にはにはうまく聞こえる
その通りです。そう書きたかったのです。
愚直に勉強する人を評価してあげたいと思うしだい。
古典本曲ということばの定義をするつもりはなかったのですが、従来の本曲と違うという機軸を打ち立てた所に海童道のすごさがあると思っています。
私が同じようなことをやれば単に「でたらめに吹いている」で終わりかもしれません。
自分独自の編曲を多くの人に説得力をもってきかせるというのは天才なんでしょうね。

本曲での替え指というのは私はあまり好きではありません。
その指使いで伝わってきたとしたら、そこにはきっと鳴らしにくくても吹きにくくても何かがあるわけで、それを探すのが勉強だと思っています。と、言いながら、指添えたりしていますが・・・


Toorakさん
おひさしぶりです。
そうですね。
道曲は海童道的には本曲を越えた所にもっていこうとしたのでは、という思いがあってその間には大きな隔たりがあると思えるのです。
同じ編曲でも樋口対山は本曲の枠をでなかった。そこが考えの違うところでしょうか。


投稿: ろめい | 2006/08/31 22:21

ずいぶん昔によく似たメンバーで同じようなことを議論したことがあるようにも思いますが、とりあえず言葉の問題について。

虚無僧が尺八で吹いていた音楽を元にした本曲を古典本曲と呼ぶ、というのであれば、道曲は古典本曲に分類されます。この場合、琴古流本曲についても、そうなります。どちらかというとこの定義は、学術的な場で使われるかと考えられます。

古典本曲にはもう一つ狭義の意味があり、こちらの方が尺八吹きの中でよく使われます。少し厳密感がありませんが、主として明暗流の本曲という意味に使われているかと考えられます。これは、どちらかというと琴古流の人たち(あるいは琴古流本曲を習得した人たち)が、琴古流本曲以外の虚無僧伝承の本曲を呼ぶ場合に使われ初めて、それが一般化したのではないかと見ています。

今問題になっているのは、後者の定義の中で、道曲が古典本曲かどうか、ということではないかと思います。しかし、この点については、この言葉を使う人の主観が含まれる場合があり、現時点では明確ではありません。

私の主観で言うと、海童道は昭和の黒澤琴古という考え方をしていますので、琴古流本曲同様、道曲は狭義の古典本曲には入れていません。

また、これは以前ろめいさんがどこかで書いていたことでもあり、私も海童道のCDなりレコードのライナー、あるいは何か他の関係のある本で読んだことですが、彼は、古典本曲という言い方を嫌って、道曲という言葉を使い出した、というようなことがありました。つまり、道曲は今まであった古典本曲とは違うのだ~、という主張。これが本当のことかどうかは定かではありませんが、もし従来の本曲を編曲した本人が道曲と言ってくれ、と言っているのであれば、そう言うのが正しいのではないかと思います。

道曲の伝承者が、道曲という言葉を使っているかどうかですが、最大の伝承者である勝也先生は、一番最初のレコード集ではライナーなどに道曲という言葉を使っていますが、その後のCD集では、尺八本曲という言葉を使っています。尺八本曲という言葉がどのように定義されているのかわからないのですが、おそらく都山流などの、虚無僧音楽を元にしない本曲も含まれるかなり範囲の広い言葉になるかと思われます。ですから、言葉の用法として間違いはありません。

なぜこのような用語を使い出したのかは疑問でしたので、勝也先生の直弟子の人に聞いてみましたが、イマイチはっきりした話は聞けませんでした。また、勝也先生のお弟子さんたちも普段から道曲というのは使っていないような印象を受けています。

しかし、そのような中でも、比較的正式な場で、道曲を古典本曲という言い方をしているのを、私はあまり見聞きしたことがありません。(道曲を人前で吹こうかというような人は、上記のことをそれなりに知識として持っている? 尺八音楽のことを知らない人がプログラムなどの説明で書いたりすることはあるかも。)

ろめいさんの書き込みを読んでいると、どこかで、しかも最近それを耳にしたような感じがします。私がそういう場に居たとしても、「よほど勉強が足りない人が多いように思う。」、に似たような印象を持つでしょうね。

投稿: Toorak | 2006/08/31 12:03

>真面目に本曲を勉強している人の方が、
>自分勝手に吹いている人より、
>素人目(耳?)にはにはうまく聞こえる
(改行を変えさせていただきました)

ここが逆になっていて、

真面目に本曲を勉強している人より、
自分勝手に吹いている人の方が、
素人目(耳?)にはにはうまく聞こえる

ということかしらと私も思いましたが。

それで、評価されないというのはおかしいとおっしゃっているけれど、正しく吹いてもちゃんと鳴らないのであれば、これは実力以上の曲を背伸びして吹いているわけで、評価以前の問題だと思いますが如何でしょう。

ところで道曲ですが、もし、海童道を継承しようという人が道曲と言わずに古典本曲と言っていたら違和感がありますが、そうでないなら一般的に古典本曲と呼んでも構わないと思っていたのですが、やはり良くないですか?
確かに海童道はビバップだかフュージョンあたりをかなり意識しているようなので、いわゆる古典本曲とは一線を画するということは分かっているつもりですが、それを言うなら、この頃の名手は、皆それぞれに新しいことをしているので、どこで線引きして古典本曲という言葉を使えばいいのかややこしくなってしまうような気がしないでもないのです。私にはよくわかりませんが。確かに勉強不足です。

メリの問題は結構迷うのですが、対山派の曲を吹くとき、交童管であれば指を添えないのですが、夢外管では指を添えないと、却って音がうるさくなるので、ちょっと添えてみたりしています。
そもそも夢外管で対山派を吹こうというのが間違いのようにも思うのですが、好きな曲を好きな夢外管にあったスタイルで吹いても良いんじゃないかという方向に傾いています。
二尺九寸管にいたってはチルの手やカラカラは運指を変えないと音程が違ってしまうという始末です。
なんだかお叱りをいただきそうですが。

投稿: ペリー | 2006/08/31 05:13

真面目に習って吹く場合、吹き方の決まりごとがあって自分の普段の吹き方と違う、吹き方を一所懸命練習することになります。
本当に自分のものになれば、不自由とは感じないのでしょうが、習っているときはどうしても試行錯誤するので思ったようにふけない。
習っていない人はある意味で自分の思ったように吹けるので、楽々と吹く。
普通の人が聞くと習っていない楽々と吹いている人の方がうまく聞こえてしまうということです。
たとえば琴古の本曲でも出てくるツの明けの大引き(ツの指使いであごメリでツのメリの音程を出す)は習っているときは一所懸命あごでめって音が鳴らなくなったり、下がらなくなったりするのですが、習わない人は単純にツのメリの指使いで音程を出してしまうでしょう。普通の人が聞けば後者の方がうまく聞こえてしまうでしょう。

投稿: ろめい | 2006/08/30 23:31

文の中の・・・
真面目に本曲を勉強している人の方が、自分勝手に吹いている人より、素人目(耳?)にはうまく聞こえるのかもしれない。真面目に学ぼうとすればするほど、自分の思うようには吹けないわけで、不自由に聞こえるのかもしれない。そういう人が評価されないというのはおかしなことである。・・・

こんばんは。ここのところの文意が少しわかりにくいのです。
国語力の不足ですのでご勘弁を・・

投稿: @単管丸 | 2006/08/30 20:41

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30551/11673654

この記事へのトラックバック一覧です: 誰に習った?:

« 「密息で身体が変わる」を読むとムクムク沸いてくる疑問 | トップページ | 発音の悩み »