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2006/08/06

「霧海篪」の考え方

私にとって「霧海篪」は苦手の曲の一つである。
今日は半日吹いていて、何が苦手なのか考えてみた。
やはり構成感がつかめない。
旋律の永遠性というか、メロディーがスパイラルに繰り返され、終わりがない。
これは「虚鈴」とつながる感じ方である。
そしてその基本と鳴る旋律の終始感がない。
どこまでも続く感じ、メロディがどこへでも行ってしまう不安感、それが吹いていて気持の置き所のなくなってしまう理由のように思う。
本曲には物語のようなきっちりした、起承転結を持つものと、「霧海篪」のような無限性を持つものとありそうである。こうした曲は人に聞いてもらうというよりは、人とその音楽の空間を共有してもらうということなのかもしれない。
音楽を、曲を吹く、あるいは聞くというのとは違う、寺の鐘の音が聞こえてくるというような音空間を楽しむとういうことなのかもしれない。

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コメント

本曲って、もともと終始感とは関係のない音楽だと思うのですが、どうでしょう?
物語のようなきっちりした曲は、対山や北国の曲を見ていると、国威高揚というか、なんとなく時代の跡を感じませんか?
乙ロや長管、広作りへの極端な嗜好は、この無批判な延長にあるようで、無意味に黴臭い気がします。

もちろん尺八の音楽は、一節切から一尺八寸へ移行した時代から、その萌芽があるわけですから、一概に否定することはできません。
しかし、細い短管で甲音の表情を楽しんで吹くと、曲の新たな魅力が見えててくるように感じます。

わたしは、同じ節を同じように繰り返すことで音の色合いが積み重なってくるところに、本曲というか本手の基本的な美しさの一つがあると信じています。
間についても、聞き手の注意を引いたり、音楽を盛り上げるような工夫でなくて、自然な息に従ってできる間がもっとも音楽の真実に近いのではないかと。

もし、善養寺さんのようにどこまでも細かい表情を真似しようとするなら、楽器というか、音質も共通したものを持っていないと数倍むずかしくなるような気がしますがどうでしょうか?

投稿: ペリー | 2006/08/14 00:59

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