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2006/09/23

尺八の生きる道

三曲という世界はこれから一体どうなるのだろうか?
私が尺八を始めたとき、手ほどきの曲の次は黒髪、六段、八千代獅子・・・と続いたものだった。
つまり尺八を習う=三曲音楽を習うということだった。
筝曲、地歌を知るということが尺八の勉強でもあった。
糸との合口、歌に邪魔にならない吹き方、・・・歌の楽しさなどいろいろ知ることができた。

それが正しかったのだろうか。
最近、自分自身は三曲から少し遠ざかっている。
普通、楽器を習うとき、まず自分の楽器について学ぶ。
つまり、ピアノを弾く人はピアノの曲を学ぶのであって、最初から歌曲のピアノ伴奏から入る人がいるだろうか。
尺八の音楽、まず最初に本曲を学ぶことが本当は大切なのではないか。

琴古流では琴古流本曲を学ぶのはカリキュラム上は外曲を一通り終わってからである。
私の手ほどきを受けた西園流は初伝から並行して本曲も教えている。
尺八を始める人に最初から本曲で入っていくメソッドがもっとあってもよいように思う。
尺八として一番美しいのはなんといっても本曲なのだから。

他方、三曲音楽を自分の中でどう考えるかということがはっきりしていない。
確かに親しんできたものなので、演奏して難しさもあるし、それなりの楽しさはある。
どうあったらいいのか、どういう演奏がよいのか、どうあるべきか、というのがわからなくなってきている。
相手を生かす演奏というのが、どこまでできるか、これは尺八の技術以上に、人間的な器が求められるような気がする。


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コメント

遅いレスになりました。
7日に社中の全国大会が終わったところです。
その打ち上げの二次会で、竹歴40年以上の先輩から、次のような話を聞きました。
「私が習った師匠は、外曲80曲が終了するまでは、いっさい本曲を教えてくれなかった。私も師匠の方針に従って教えているが、今の人は、外曲で基礎が出来ていないうちに、やたらと本曲を吹きたがる。こまったものだ。」
およそこんな内容であったと思います。
この話が正しいことであるか否か、コメントできるほどの見識は持っていませんが、このような方もいると言うことをご参考までに記しました。
私の場合、妻が絃方であることもあって、結果的には外曲がほとんどで、これはいかんと思っていたところでもあります。

投稿: ムーミンパパ | 2006/10/10 12:56

>ろめいさま
こちらこそ、コメントへのコメント有難うございます。
いきなり登場させて頂きましたが、記事はよく拝見させて頂いておりますm(_ _)m
そうですね、仰るように、2通りの楽しみ方ができますよね。いろいろな感じ方や解釈の仕方があると思うのですが、知識を持つことで、その幅がさらに広がったり深まったりするのが、面白いなぁと思います。
囚われすぎてはいけないのかも知れませんが。
ただ、客観的な知識を持つことは、あらたな視点を持ったり理解をするための一助になるのだろうなぁと思います。ろめいさんの仰るように、特に、文化が違うものに触れるときには、より一層大事になるのかなぁと思います。

現代人は、また新たな別の教養が必要になってきているのかも知れないですよね。
しかし、少なくとも私は、古典の先生好きじゃないし、とか言わないで、もう少しまともに勉強しておけばよかったと思います。本当に・・・(^^;

>しんたさま
>玉虫さんなんかまだお若いし
ありがとうございます!(^o^)/
(あえて反応・・・)
そうですね、自分でも恵まれた環境、そして状況にいると思います。いろいろと見たり聴いたり感じたりできるときに、その一瞬一瞬を逃さないようにしていきたいなぁと思います。
舞台系も、時間と資金が許すかぎり、いろいろと観に行きたいものです(^-^)

投稿: 玉虫 | 2006/09/28 23:55

玉虫さんなんかまだお若いし、京都大阪というその気になればいくらでも本物を見聞きできる環境にいるのだから、時間のある限りあらゆる美術・演劇・音楽を生で鑑賞なさることをお勧めします。そして時には大自然の中に身をゆだねてみることもいいでしょう。

投稿: しんた | 2006/09/28 01:59

玉虫さん
コメントありがとう。
芸術には知識なしで純粋に感動させるというものと、前提知識があるとより深まるという2面があるような気がします。
ヨーロッパなどの美術館で絵画、彫刻などをみると、そのもののすばらしさはもちろんありますが
その背景となるキリスト教知識、ギリシャ神話の知識などがないため、理解が充分にできないもどかしさを感じることが
あります。
日本の美術品でも仏教説話など前提知識が理解を助けるものは多いです。

現代に生きる私たちは時代の常識としての教養というものが本当になくなっているような気がします。
もっと文学にしても宗教にしても歴史にしても学ぶ必要を感じます。
落語のくまさんの世界でも庶民の教養があったように思います。
本当に教養というものは必要だと思います。

投稿: ろめい | 2006/09/27 23:04

>たとえば「八重衣」を聞く人は、和歌の嗜みがあり知識と教養が無ければいけないとか

こちらで思い出したのですが、以前、浮世絵展を観に行ったとき、「見立絵」というものがたくさんありました。
日本や中国などの物語、故事、伝承などに題材をとって、その当時風に描いたものだそうです。
それを見たときに、歌詞や曲の理解に、いろいろな知識が必要な三曲のことを思い出しました。

江戸時代(といっても長いですが)には、そのようなものが流行っていたのかも知れませんね。

会場の説明(図録にも書かれていますが)では、「江戸の庶民は、意外なほどに、広く深い文学的な教養の持ち主だったのです。」と書かれていました。
江戸時代には、一般教養的なものだったのかも知れませんね。

私も、国語の古典をちゃんと勉強すれば良かったと、邦楽を聴くようになってから反省しています・・・。

尺八の話題からは逸れてしまいました。
すみませんm(_ _)m

投稿: 玉虫 | 2006/09/27 22:29

失礼 善養寺氏の字が違っていました。
禅(誤)善(正)。

投稿: さすらいの尺八マン | 2006/09/26 10:52

私は都山で初めて習った曲は「初音」、
リンデル先生は童謡から、
禅養寺氏の個人レッスンは「大和樂」、
師匠によってそれぞれ違う、
初心者にとってはそれぞれの良さがある。
一概に、それはいかんとは言いがたい。
要は、自分は将来どのような曲を吹きたい
のかを見定めていくことであろう。

投稿: さすらいの尺八マン | 2006/09/26 07:10

この問題は軽々にはコメントし難いが、あえてします。
>まず本曲から
には賛成できません。当人が本曲を目指すのならそれでいいかもしれないが、琴古ほど極端でなくともある程度吹けるようになってから本曲にのぞむべきでしょう。吹奏力も音感もない人が無茶苦茶吹いても通ってしまう世界はいかんと思う。

投稿: しんた | 2006/09/25 19:58

追加
「聞き上手」という、伝統文化も日本人の感性に
あるとか、
たとえば「八重衣」を聞く人は、和歌の嗜みがあり知識と教養が無ければいけないとか、
日本料理にも一品一品には趣向と意味があり、客はその意味をくみ取る教養とがないと、
無粋な客として以後断られるという土壌があるらしい。
茶道でも亭主は客をもてなすため、道具を準備し、客は亭主の心をくみ取り、その席の趣向を感じるという・・・
無粋なさすらいさんには、思いも及ばない世界である。

投稿: さすらいの尺八マン | 2006/09/25 08:34

私も尺八は三曲から入りましたが,その数年後に,いろいろな悩みながらいるうちに,尺八の代わりに胡弓の入った演奏を聴き,これがなかなか良いと感じて,つまり唄・三弦・琴に胡弓が良く溶け合っていたと感じ,それ以来,三曲への熱意が消えてしまって,今に至っています.(今は,越中おわら節の胡弓パートを尺八で演奏して悦に入ってますけど...ハハハ)

投稿: yatou | 2006/09/25 08:25

私のヤブニラミの見方としては、
三曲・地歌はモーツワルトの曲の遊び心
のある作曲のように、一部の
貴族や大旦那等パトロン達の為に
検校たちが粋と技を凝らし作った曲で、
「笹の露」手事のほろ酔い気分や、
「茶音頭」の数寄や者、「残月」の子女の
踊振りなど、演奏の掛合いを楽しんだ
粋で遊び心のある、一部の愛好者の為の曲。
一般庶民は、端唄・小唄・都都逸・俗曲。

一方、本曲は津軽三味線のように、
本来、門付けで商家や街頭・軒先で吹いて
喜捨をする、気ぐらいの高そうな流し芸人。

伝統格式の歌舞伎でも、スーバー歌舞伎や
お客様にアドリブで世評などのコントをやり
客にサービスをする。
邦楽もしかり、お客に受けるにはと・・
格式がにがてなさすらいさんは、
あえて邦楽以外の人の前で、恐ろしくも、
人間性をさらけ出して見ようと
「黒船物見遊山」に虚無僧姿でエントリー
することにしました。
ある、名人は
「芸は子供からはじめて、円熟するのは
60歳頃だ」と言ったとか、言わぬとか・・・
20歳じゃまだ、ひょつこですね、
良かったら、さすらいにきてね。(^^ゞ
飛び入り歓迎!!!

投稿: さすらいの尺八マン | 2006/09/25 07:30

邦楽の世界というのは何とも閉じられた世界になっていて、演奏会も身内、社中、邦楽関係者ばかりということも多いです。
世の人に問うてみるということは必要なのでしょうね。
それで本当のその音楽の力がわかるのかもしれません。

個人的には地歌、筝曲という世界は普通の初めて聞く人を感動させられる演奏というのは本当に名人の域で、その次のレベルは解る人がきいてうまい、そしてその下になるともう一所懸命頑張ってます、ということになってしまいます。
比較は難しいですが津軽三味線などではもう少し、素人が聞いて楽しめる音楽なのかもしれません。
地歌、筝曲の世界では今の所、いくらうまい人でも20歳そこそこでは人を説得できる演奏が出来る人はいないように思います。
尺八本曲は・・・これまた、海童道系で人を驚かせることが出来る人はいますが、琴古や明暗の曲でちゃんと感動させられるのはよほどの技量。
尺八本曲は人間性がそのまま出てしまうのでやはり20歳そこそこでは技術はできても何かが足りない演奏になるように思います。

私も邦楽以外の世界の人の前で演奏するのは違う意味で非常に恐ろしいです。

投稿: ろめい | 2006/09/24 22:23

演奏会などの耳の肥えた聴衆ではなく、
街頭や道端に立って、一般の人に三曲や本曲等を吹いてみてどういう反応するのか、
実際に体験してみたいですね。

投稿: さすらいの尺八マン | 2006/09/24 07:32

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