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2006/11/20

自分の思ったように吹かない

古典本曲に曲の解釈が必要なのだろうか?と思うことがある。
この本曲はこういう構成になっている、だからこういうつもりで演奏したほうがよいのではないか。
そういうアプローチが成り立つのかどうか。
曲、フレーズの類似性という見方で追うことは、曲のルーツ探しという意味では一つのアプローチと思うが、演奏とは別の問題かもしれない。
本曲は口承芸術である。伝言ゲームにより、バリエーションが広がり、違う型がうまれ定着していく。
それは一人の時代の名人が形作ることもあるし、その土地、風土がきめていくこともある。
自分は今、どこの立場で本曲を捕まえようとしているのか。
琴古流の本曲は琴古流の中で熟成されている。
西園流の本曲もまたその中で時代の変化を受け止めている。
京都明暗の本曲にしてもしかりである。
そうしたものの外側から、楽譜を頼りに、ある時代、ある名人の真似をすることは、曲の形を勉強するに過ぎないのではないか。
本曲の一番大切なところは曲の内側の部分であろう。
本曲は同じ曲でも演奏するたびに演奏者のそのときの気持ち、雰囲気で微妙に変わる。若いときと年をとってからでは吹き方もずいぶん変わることもある。しかし、フレーズが多少変わろうと、吹き方が変わろうと、テンポが変わろうと変わらない内なる何か=その曲をその曲たらしめるもの、があるはずである。それを盗ることが本曲をマスターするということなのだろう。
話を戻すが、そういう意味では「曲の解釈」というのは意味があまりないように思えてくる。
また、それは本曲は「自分の思ったように吹く」のではなく、その内なるモノを求めるために、形を決めていくものであるから、「自分の思ったように吹く」ことは害が多い。

個性を捨てよう。少なくとも個性を出そう、ということは本曲の世界ではしないほうがよさそうである

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