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2006/11/10

「琴菅垣」と「転菅垣」

西園流の「琴菅垣」と琴古流の「転菅垣」があまり似ていない、と前述したが、もう少し深く曲を見ていたらいくつか発見があった。
「琴菅垣」は「転菅垣」の前半部で構成されており、「転菅垣」の一番特徴的な旋律が出てくる前のところで終わっている。
「虚鈴」が琴古流の「真虚霊」の前吹きの「盤渉調」からきているように「琴菅垣」は「転菅垣」の前吹きで終わっている、と考えてみた。

まだ仮説に近いので、詳細はもう少し調べてみたい。

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コメント

間違えました。
「自分の思ったように吹かない」へのコメントです。

投稿: ペリー | 2006/11/30 04:31

本曲の解釈は必要な人もいれば、必要でない人もいる、人それぞれといったところではないでしょうか。
しかし暗譜した時点でなんらかの感想を抱けばすでに解釈の萌芽ですし、何かのおりに気づくことがあれば、解釈が進展するようなことになってしまう。好奇心から分析したい欲求が起これば抑えようもないし、また抑える必要もないですよね。
曲を吹くときには、あまり解釈が見えすぎると聞き手のイメージを限定してしまってつまらなくなるし、かといって解釈が間違っていると、不節操な結果になる。

去年の夏に「妖怪大戦争」という映画を娘と見に行ったのですが、主人公の少年が山に登るシーンで、道曲風の本曲が短いの一曲といった感じで使われていたんです。そこそこ達者な尺八なんですが、全ての音が孤立して効果音の羅列になっているんです。私は背筋をひん曲げられ踏みつけられるような苦痛を感じました。
「鹿の遠吠え」どころの話ではないのですが、本曲は音楽では無いという人も多いですし、私には効果音にしか聞こえない騒音を精神性の表現だと感じる人も実際に多いわけで、人が商売でやっていることをとやかく言っても仕方ないのですが、本曲は音楽だという立場からすると、あれは解釈の誤りだと言いたくなります。
ろめいさんの趣旨の「解釈」とは意味がずれてしまったかもしれませんが、解釈を間違ったらとんでもないことになると。

私は本曲は「型」だと感じるのです。解釈は「型」に昇華解消する。内なる何かも音楽の形もすべて、ごく単純ななんでもない「型」に収まる。なんでもかんでも、いくらでも「型」に飲み込まれてしまう。
にもかかわらず、戦後の名人達は自分の吹き癖、好み、理想を自分の内に幾分抱え込みすぎたのではないか? いやこれは彼らが時代の変化を受け止めたのだとしても、その弟子たちが形を決めて守り過ぎた、現に守り過ぎているのではないか。フレーズの形を決めて真面目に守りすぎると、効果音と紙一重になって糞詰まりです。「形」と「型」はまったく別のものです。
ろめいさんに難癖つけるつもりはありませんがだから、本曲はいったんマスターしてしまったら、死に体で用済みになってしまう。
私は、いつでも自分の思ったように吹いて、それが型にするっと飲み込まれるようになりたい。
心の欲する所に從って矩を踰え不。
本曲は故障知らずの水洗便所でなければならないと思うのです。

投稿: ペリー | 2006/11/30 04:27

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