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2007/03/29

音を抱える

10日も開いてしまった。


私は尺八は吹くものだとずっと思っていた。
吹くことは息を吐くことだと思っていた。
息をたくさん出すと大きな音がすると思っていた。

最近、今ある息をいかに丁寧に有効に使うかに気を使っている。
無責任に吐き出された息からは無責任な音しかしない。
自分のコントロールを離れてしまった音は自分の表現ではない。
ていねいに口の中に息をころがしてみる。
音を抱える
重いものを持つとき腰を下ろしゆっくり持ち上げる、
そんなイメージを持っている。

こうして工夫はあまりに無造作だった私の吹き方からすればよいことだとは思うが
他方で音楽自体をこじんまりさせてしまいそうである。

一つの音で大きなそれでいてみっしり意識が詰まっている世界を作りたい。
まだ道は遠い。


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コメント

馬鹿馬鹿しかったですか。
遠慮しないで素で書いていたものですから、申し訳ない振り方をしてしまいました。
ごめんなさい。

投稿: ペリー | 2007/04/14 17:27

>ツレーのあとの「間」よりも、ツレーの「長さ」なんですか?
言葉で音楽を伝えることの馬鹿馬鹿しさですが
ツレーの長さ、その後の間、ツレーの音色、音量そのあたり総称した最初の「一息」にあると考えたいです。

投稿: ろめい | 2007/04/13 07:42

> このツレーはこの長さしかありえない、という長さが必ずあると思っています

ツレーのあとの「間」よりも、ツレーの「長さ」なんですか?

長さって、たとえば真夏のかんかん照りの真っ昼間と、晩秋の曇った夕方で変えたくなったりしないのですか?
クラシックだと、この長さしかありえないということは頻繁ですが、本曲の場合は卒意というか、その場その時の空気に応じてかなり自由な感じがしています。それから、尺八の音色や長さの違いによっても微妙に変わるような気がするのですが、どうなんでしょう。
このところが、本質が無いということと、私の中ではつながっていて、日本の音楽と西洋の音楽との決定的な違いだと感じているわけなのですが。

一方、「間」のほうは、たとえば同じように甲ツレーで始まる「九州鈴慕」との違いが、ツレーの長さではなくて、そのあとの「間」の表情、つまり、息継ぎの仕方で決まってくるように思うのですが、そういうことってないですか?

投稿: ペリー | 2007/04/13 03:53

ペリーさん
文章が長すぎてどうコメントをつけていいかわかりませんが
とりあえず下記にだけ反応
>それが「虚空」の個性。ろめいさんはどう思われますか?
虚空の個性。最初の一息、ツレ-。が命であることは言うまでもありませんが、長く引っ張りすぎても短くてもおかしなものです。
どのくらいが適当かというと、多分人によって違うのでしょう。
けれど、このツレーはこの長さしかありえない、という長さが必ずあると思っています。(誰もがそうだというわけではありませんが、個人個人にその一息があると思います)
それがつかめるかどうかが虚空の全てでしょう。

投稿: ろめい | 2007/04/12 23:56

ウ~ン、またまた勉強。
「。」ですね。ある、ある、最初と、二つ目の「ツレー」のあとにある。
ケレンになる一歩手前ねぇ~、言い得て妙って感じですな。わかります、わかります。実験してみましょう。

師事した先生ですが、鋭いクサビを吹かれます。枯淡の味わい。
わたし脱帽して弟子入りを請いました。

三曲ですが、合奏稽古にときおり通っていたキヨちゃんには、とりあえず半年間のお休みを貰っています。

音律ですけれど、尺八吹きは律に疎い方が多いですね。
わたし、お箏の平調子くらいはアッと言う間に整えますよ。
アッハッハ(笑い)、明暗ってあまり律にはこだわらないみたい。
これって、とっても面白い。ケッタイナ音だけれど、すっごく面白い。

投稿: 波平 | 2007/04/12 21:13

波平さん、今日は。

わたしは我流なので、適当です。実際は「ふーん」とか「あ、そうか」といった程度のことなんですが、言葉にすると随分ややこしくなってしまいます。

調べたら、私は尺八の練習をはじめて、もう六年も経ってしまいました。でも、「虚空」はまだ早いと思って吹いていないんですよ。長い曲ですからね。覚えるのが面倒臭いんです。吹ける時期が来たら面倒がらずに覚えてしまう筈なんです。別に暗譜でなければいけないことも無いのでしょうが、譜面を見て吹くと姿勢が悪くなって嫌なんです。譜面台を使えば済むだけの話ですが。

余計なお世話ではありますが、波平さんはせっかく師事なさったのですから、「虚空」を吹くにしても癖を付けない様にしていただけたらと思います。
最初の「ツレー」のあとに「。」が付いていますよね。ケレンになる一歩手前までしっかり間を開けろ、休止を長く取れ、ということだと思うのです。曲中でも、たっぷり間をとりながら、しかしだれないように集中する。それが「虚空」の個性。ろめいさんはどう思われますか?
ともかく最初に間違ったイメージが固定してしまうと、あとになって、面倒なことになってしまいます。用心して下さい。

私はほとんど本曲しか吹かないのですが、波平さんはアンサンブルで人の音を聞く能力が、そこらへんの自信満々のプロより上をいっていると思うのです。三曲を完全にやめてしまわれては、もったいないような気がしています。

波平さん。不躾な話で失礼しました。

投稿: ペリー | 2007/04/12 20:49

う~ん、勉強になる!
そうかぁ~、わたしの見ている譜は“対山の虚空、自筆譜”の流れだったか。
いやぁ~まったく、皆さん、自由自在に吹いておられるのですね。
虚空は皆伝あつかいの曲だけれど、吹いたらダメってわけではない。まだ習っていないけれど、我流でなら、わたし何だって吹いてしまう。
明日、吹いてみよう~っと!

投稿: 波平 | 2007/04/12 19:14

ろめいさん。ちょっと長くなったので、適当に読み飛ばして下さい。

さて、よりどころを求めると言ってしまうと、南無妙法蓮華経とかナンマイダとか只管打座とか鰯の頭とか、これらと同じ宗教になってしまいませんか? いや、宗教だという立場もあって良いとは思いますが。

本曲譜は、必要な情報に欠ける部分もありますが、私の場合は、まだまだ読みが浅くて、読めていない部分が多すぎると感じているのです。「基本として大切」とか、「原型」とか、ちょっと肩に力が入りすぎていました。

ただ、本曲に関しては、「本質」を見極めようというアプローチ自体が無効なのだ、と思っているのです。その理由が、下に書いた「二つの原理が並存している」ということです。
本曲にはひとつの「本質」というものは無くて、骨格が与えられれば、必ずこれを否定するところに、初めて成り立つ音楽なのではないか。
ダブルスタンダードがせめぎあうところに本曲が生まれるのではないかと思うのです。

どなたも興味は無いと思いますが、ついでなのでもう少し説明してみます。

「ツレー」の「ツ」を、普通、装飾音のように扱いますね。ところが、何の曲でも良いのですが、たとえば「本調子」を考えれば、メリをはずすと完璧な呂旋法、ツレチハロツ(ドレミソラド)、所謂ヨナ抜きの旋法の曲であって、「ツ」はもっとも大切な主音です。
もともとの尺八、つまり一節切の時代にはまだ陰旋法などなかったのですから、呂旋か律旋で吹かれていたと考えるのは自然です。
この呂旋の組織を壊して、つまり、呂旋という本質を否定して、「レ」を主音とする都節してしまう。これが二つの原理の並存。
この並存の状態が安定するのを嫌えば、「チ」をめらなかったりして、さらにひとつの原理、本質に落ち込むことをさけようとする。
本質を否定する、空無化する様式としては他にも、下に書いた「虚空」の「チーチルーヰツυ、ハロー」のように息継ぎの位置によって分節を変えるという方法も有るわけです。

以上の見方で呂旋法を持ち出しました。これがどこまで適切なのか、確信はありません。
しかし「ツレー」のかわりに「レー」と吹くヴァリエーションが混在する曲は見当たらないような気がするのです。ここにヒントがある。
たとえば「本調子」の「ツレー」を「レー」に変えて吹く人はいない。これは、呂旋法という一方の原理をふまえた「ツレー」、がなければ、二つの原理がせめぎあう本曲としての運動が発生しない、本曲にならないからだと思うのです。こういった事情を、呂旋法を持ち出して考える妥当性の根拠として考えています。

このように考えると、固定的な実体としてのオリジナルな形(原曲)とか、ただひとつの本質(本質というのはひとつですよね)を本曲に求めるのは、実は、存在しない幻を求めることと同じであって、言葉の本来の意味において、神秘主義そのものということになってしまうのではないかとも思えるのです。

英龍さんの「尺八の部屋」のSP音源にある、浦本浙潮の「阿字観」が、良く考え抜いて勉強してはいるけれど、偽物ではないながら、本物にも聞こえない(ですよね? 違いますか? 二回続けて聞くとちょとつらくなる、感動できない)のも、表面的な形の上で本質を追求し過ぎているのが災いしているように思います。もっとも、本来の自分の音ができていないとか、音楽が生きていないということもあるかと思いますが、結局は同じ事です。
それに反して、宮川如山は、音楽が生きている。私には詩吟のように聞こえて困るのですが、それも聞いているうちに気にならなくなってくる。洗練とはほど遠いけれど、こういうのが本物だと思うのです。
浙潮はインテリの素人芸だと言ったら言いすぎでしょうか? いろいろ書きものを残してくれているのは嬉しいのですが。

ところで、神如道譜は楽譜の適正価格を大幅にはずれていると思っているので、欲しいとも思わないし、持っていないので分からないのですが、善養寺さんは神如道譜に忠実に吹いていらっしゃるのですか?
神如道のCDとは、メリ以外でもわずかに違うようですが。

それから、西園流の本曲の譜面、どこか手近な入手先、ご存知でしたら教えていただけないでしょうか。

投稿: ペリー | 2007/04/12 17:24

>だから、私のように、自分の吹きたいように吹こうと思えば、曲を理解して自分のものにする基本として大切な作業だと思っています。
答えになっているかどうかわかりませんが、
本曲は結局よりどころを何に求めるかだと思います。
自分で譜を解釈する、アナリーゼするというのは面白い作業ではありますが、譜が完全なものでない、もっと言えば本曲の音楽自体が変化するものであるとするならば、何がその本質であるかというのを見極めることは非常に難しいところです。

ちなみに神如道譜と対山派の譜を比べる作業で元をたどるというならば、原曲という意味で言えば西園流の虚空をたどるほうが近道でしょう。

投稿: ろめい | 2007/04/11 22:15

>師匠の説明と音、古人の音源にすべては隠れている

確かにおっしゃるとおりなんですが、私のように、自分の吹きたいように吹くことを目標にしていると、楽譜を見るのもなかなか楽しいものがあります。

以下は嘘空の冒頭部分です。メリは表記していません。

○善養寺さんのCDから。

1 ツレー、ツレー、ツレーゝール、チーチルー、
2 ハイゝーハイゝーハυー、チーチルー、
3 ツレー、ツレー、ツレーゝール、チーチルーヰツυ、
4 ハローゝυーゝハυ、ツーローゝυーハゝυー、ハイυー、
  ハローゝυーローハゝーゝイυ、ウーυ、
5 乙ツレーゝυーゝυー、甲ツーローゝー、

○対山の虚空、自筆譜から。

1 ツレー。ツレー、ツレレエ、チーチウー
2 イーイーハ チーチウー
3 ツレー、ツレー、ツレレエ チーチウーウ三ツー
4 ロローロハ ツーロロ ハゝーハイ ローロハーイ、
5 ウυレレーレ ツーロロー。

四行目なんですが、流れはどちらも同じですが、構成がよく分かりません。

ロローハ ツーロロ ハーハイ
ロローハ ハーハイ。

このように考えると、繰り返しで「ツーロロ」を省略したようにも見えますが、どこか無理があります。

そこで、対山の木版嘘空を見ると、三行目の「ツ」が繰り上がっています。

○対山の嘘空、木版から。

1 ツレー、ツレー、ツレーレ、チーチルー
2 イーイーハ、チーチルー、
3 ツレー、ツレー、ツレーレ、チーチルー
4 ハイツーツ、ロローロハ、ツロロハハーハイ、ロローロハ、
5 ウレレーレ、ツロロー、

そこで、このような単純な形が浮かんできます。

ツローーハ ツーローハ ハロー。

これだけで、客観的なことは何も言えません。あくまで想像ですが、たとえば下のような原型の姿を考えることはできないでしょうか。

○原型

1 ツレー、ツレー、ツレー、チーチルー、
2 ハイーハイーハ、チーチルー、
3 ツレー、ツレー、ツレー、チーチルー
4 ツローーハ、ツーローハ、ハロー、
5 乙ツレー、甲ツーロー、

ここから、ちょっと無理はありますが、私は下のような構成を想定します。

○骨格

ツレー、ツレー、ツレー、
ハイーハイーハ、
ツレー、ツレー、ツレー、
ローハ、ローハ、
ロー、ロー、

本曲は大抵、このような整然とした構造を持っていて、これを、甲乙自由に按配したり、繰り返したりすることで、曲を構成しているのだと思います。

それと共に、
チーチルーヰツυ、ハロー。
などのように、慣習として使用される「手」が構成を分断していて、これがむしろ、一曲の個性を印づけでいる。

所謂尺八本曲という音楽は、このように二つの原理が並存している。整然とした論理的な構造と、これを分断して表情を第一義とする「手」の二つ。
そういうことが、まあ、どこまで当たっているかはわかりませんが、楽譜によって見えてくるというのは、楽しいものです。

曲の構成を楽譜によって自分なりに把握するということは、いざ曲を吹こうという時に、「そこ」から離れる土台を持てるということです。
だから、私のように、自分の吹きたいように吹こうと思えば、曲を理解して自分のものにする基本として大切な作業だと思っています。
ろめいさんはどうお考えでしょうか。

投稿: ペリー | 2007/04/11 20:30

師匠の説明と音、古人の音源にすべては隠れているように思います。
自分の吹きたいように吹かないためには師匠の指導が必要でしょうし、息の使い方、運指のニュアンスなどは古人の録音の裏にあるところを注意深く聞くことになるでしょう。
古人の録音はなかなか聞き方が難しいかもしれません。
笹吹きだ楔吹きだとかいっているものも全てそうしているわけではないですし、それをどうしてそこでしなければいけないかまで読み取ることは至難の業です。
そういう意味で何度も問題意識をもって聞いているとわかることもあります。

投稿: ろめい | 2007/04/01 11:29

波平さん
クサビ吹きとか笹吹きなどに惑わされる必要はないと思うけど、普通に吹けばいいんじゃないでしょうか。
技法としてより、昔の人はそういうふうにしか吹けなかったんじゃないか、などと思うときもあります。が、SP録音など聞くと笹吹きなどしてないように聞こえる。
今でも吹きだしと終いのピッチが無茶苦茶に平気で上下する先生がいますが、論外でしょう。

投稿: しんた | 2007/04/01 08:38

そうですね、確かにそのような気がします。わたしごとき未熟者が言うようなことではないけれど…、
で、
わたし、明暗を稽古し始めたばかりですが、実は、この息遣いに迷っています。
今まで地歌尺八を吹いていた時は、確かに音を抱えるような吹き方が出来たときは嬉しかった。
が、明暗のクサビ吹きはどうも様子が違って戸惑っています。
クサビに吹きはするが、堂々と大きく構えたい…などと思うのですが、息遣いを変えたもので肝心の音が思うように出ませんです。
運指にも気が散りますから、なおのこと音が出ない、
難しいものですねぇ~。

投稿: 波平 | 2007/04/01 08:15

ろめいさん、ちょこっとご無沙汰しました。

めったに無い調子の良い時の話ですが、結果として、芯のある豊かな響がでているときは、意外なほど、息が減らない感じがしています。
それと同時に、やはり結果として、響きの強さは息の量に比例しているように感じています。

いま目指しているのは、いつでも、息が減らないような感じを維持しながら、たっぷり息を使って吹けるようなフォームです。
がしかし現状は、地無し長管を吹いた直後に木管の1尺6寸を吹くと、よほど体調が良くない限り、甲のチ、リ、ヒあたりで息が充分に入らなくなってつまずいてしまいます。
体調が良くない時には無理をしない方が良いのではないかと迷うところもあるのですが、ひとまずは何とかしたい。

ということで、練習方法をいろいろ考えるたりもするのですが、結局は自分の音を良く聞くということ。良く聞いて、気に入らないところは端から直していく。まあ、今はここは仕様が無いだろうなどと思わないで、あの手この手でともかく直していく。
そういうやり方しか無いような気がしています。

よく、秘伝の奏法とか、合理的な奏法とか言って、吹き方を固定してしまう人がいますよね。
ある程度熱心に音楽の練習をした人なら誰でも経験があると思うのですが、長い間かかえていた欠点を克服したときには、とんでもない秘密を手に入れたような感動におそわれる、超一流の名手にあと一歩のような錯覚に陥るものですが、あとから振り返ってみると、なんでもない当たり前のことだったりするものです。
勿論、奏法の工夫は必要ですが、要は音が良くて、音楽さえ良ければ、奏法なんてどうでもいいわけです。
それでやはり、自分の音を集中して聞くということ、今解決できる問題点は手を抜かないで解決して行くこと、という当たり前の方法しか上達の道は無いのだろうなと思っています。はぁ~、やれやれ。

投稿: ペリー | 2007/03/31 07:13

先日NHKFMにゲスト出演していた竹友社川瀬庸輔(宗家ご子息)
が、「尺八という楽器は、少ない息でいかに鳴らすかに尽きます」云々の事をおっしゃっていました。

山口五郎先生のテ-プで、真似して吹くと息を無駄に出していないな~とつくづく感じますし、自分の吹き方も自然にそうなっていきます。

投稿: @単管丸 | 2007/03/30 16:43

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