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2007/05/27

古典本曲はお経ではない

古典本曲をやっている人の中には
「虚無僧にとっては本曲はお経の代わりである」
という人がいる。
本当に本曲はお経の代わりになりえるか?

そもそもお経とはお釈迦様の死後、約250年ほど後(異説多々あり)から作られるようになったという。
仏様の教えを記述したという形式をとるものが多く、サンスクリット語の原典が必ずある。

翻って本曲はどうか。
確かに曲名にこそかろうじて仏教語らしい言葉がちりばめられているが、それ以上には何もない。
体系的でもない。
そのいい加減さは中国で作られた多くのニセ経の比ではない。(というよりお経と考えるのはどう考えても無理!)
日常行住坐臥すべて禅に通じるという意味での経というならそれもいいだろう。
しかしそれでは本曲がお経であるとはいえないだろう。

どうして今の本曲吹きはそんなニセ禅の権威を借りようとするのか。
そんなことを言わなくても本曲そのものに力があると私は信じている。
禅だのお経だの関係ない。
久松風陽の独り問答の以下を味わうべきである。

問普化は尺八の租ならずや、其の道を学んでそのもとを知らざるは未熟にあらずや
答予は尺八の根元を知るが故に、かへって普化を知らず、普化は明悟の人なり、何ぞ尺八を吹て悟道を学んや、予がごとき愚智文盲にして、好んで尺八を吹き、漸く尺八の禅器たるを知るの徒と日を同ふ論ぜんや、普化もし尺八を吹といふとも唯一時の戯れなるべし、其業においては予が累年の修行に及ぶ事なし、今世普化再来して尺八を吹ことあらば、必予が門下に来て道を問ん、普化一世の録をみて普化の始終を知りたりとも、普化の悟りたるを知らざれば普化を知らざるなり、普化の始終を知らずといふも普化の悟りを知りたる者は則普化を知れるなり、予は未だ知らず


<追記>
いろいろな読み方されるようなのできわめて私的な訳をば。
細かい所読み違いはあると思いますがこんなもんでしょう。

問 普化は尺八の祖というではないか。その道(尺八)を学んでその元を知らないというのは未熟ではないのか?
答 私は尺八の根っこを知っているので、かえって普化禅師を理解していない。普化禅師はすでに悟った人である。どうして(わざわざ)尺八を吹いて悟道を学ぼうとすることがあろうか。私のような智恵もない愚かな文盲で、好きで尺八を吹いて、やっとこさ尺八が禅の道具であることがわかったような輩と同じように論じてよいものか。
普化禅師がもし尺八を吹くといっても唯一時のお遊びである。その業においては私の長年の修行にかなうわけではない。今の世に普化禅師が再来して尺八を吹くことがあれば、必ず私の門下に来て尺八の道を聞くだろう。
普化禅師の一代の功績をみて普化禅師の初めから終わりまでいsったとしても普化禅師の悟った所を知らなければ普化をしったことにはならない。普化禅師の業績を最初から最後までしらないといっても普化禅師の悟りそれ自体を知ったものは普化をしったことになる。(あいにく)私はまだ知らない。

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コメント

まとめということで持論を。

要するに超訳してしまうと、風陽は
「私は尺八は良く知っているが、禅については素人同然であまりわかっていない。だから普化禅師の禅などは理解できていない。ただ、普化が今の世の中に現れて尺八を吹くといったら、私の方がよほど上だろう。なんたって尺八の修行の仕方が違うからね。」

つまり
尺八と普化禅とは別物ってことをいいたかったのだと思います。

投稿: ろめい | 2007/05/29 23:17

しんたさん流に書くと、
「俺は尺八を吹くことしかしらん、普化なぞ知らぬが、尺八禅のことなら誰にも負けぬぞ! 」

普通に読めば、これ以外ないと思いますが、ろめいさんはどう思いますか?
突き詰めたくないのなら棄てておいても構いませんが、風陽は正しく読んでおいた方が良いような気がします。

混乱してもご迷惑なので、この件、私はここまでにします。

投稿: ペリー | 2007/05/29 18:50

「徒」=「風陽」

投稿: ペリー | 2007/05/29 13:41

ペリーさん
へんなところで切ってはいけませんよ。
「尺八の禅器たるを知る」ではなく、「尺八の禅器たるを知る徒と日を同う・・」です。
ですから「尺八の禅器たるを知る」のは風陽ではなく「徒」です。

投稿: しんた | 2007/05/29 07:50

本題ですが、一朝軒で葬儀の際に尺八を吹いていたと言う話を信じるなら、実際に読経の代わりなっていたんじゃないですか?
「南無妙法蓮華経」とか「ギャテーギャテーハラギャテー」の代わりに尺八を吹くのなら、むしろ良いことだと思いますね、私は仏教嫌いですから。
それより不思議なのは、禅宗では経典を重視しないはずなのに、お経を有難がっていることでしょうか。

ニセ経という話ですが、「如是我聞。一時仏~」と書いてあれば全て本物とも言えるし、大乗非仏教説に従って、本物の古いところを見ると、ジャータカだの前世譚だの、純粋な民話文学だったりして、もう、何が本物だか分からなくなってしまうところなどは、本曲と同じですね。

まあ、本曲が音楽でなくても、あるいはニセ禅でも、それとも飲み会のネタに尺八を習っているのでも、やることの無い寂しい余生に比べたら上等だと思います。とても良いことだと私は思います。

それはそうと、再び風陽ですが、「普化一世の録」なんて、それらしき物も存在しないですよね。どこかにありましたか? ご存知ですか。どうでも良いことだけど、ちょっと気になってしまいました。

おっ、追記なさいましたか。
くどいようだけど、風陽は「尺八の禅器たるを知る」と書いているのだから、彼にとって、本曲と禅は関係あるのではないですか。
いくら読み返しても、私にはそのようにしか読めません。曲解なの?

投稿: ペリー | 2007/05/29 03:56

ぺりーさん、まんぷく堂さん、しんたさん
いろいろコメントありがとうございます。

風陽の独り問答はそれほど難しく読まなくてもよいと思います。

投稿: ろめい | 2007/05/28 23:33

ペリーさんの解釈はかなり曲解ですな。
風陽は
俺は尺八を吹くことしかしらん、普化だの禅だのなぞ知らぬが、尺八のことなら誰にも負けぬぞ!
と言ってるにすぎない。

投稿: しんた | 2007/05/28 17:36

まんぷく堂さん、はじめまして。

まんぷく堂さんの読み方でも、そんなに違わないように思います。
まんぷく堂さんの読みはこういうことですよね。

#悟りの程度(内容)に段階がある、
#風陽自身は、普化を上位と考えている。
#にもかかわらず、尺八を禅器とする
#「悟道に到る道、方法」において、
#自分(風陽)は普化より上位である。

風陽は、尺八を吹くことによって悟りを開いたと言っていませんか? なんらかの悟道といっても、同じことです。

なお、プロの演奏家ということですが、風陽は士分のまま副業で尺八を教えていた、つまり、アルバイトで尺八の先生をしていたのであって、尺八の演奏によって生活を支えていたのではないでしょう。だから、プロの演奏家というのは無理があるのではないでしょうか。

また、ろめいさんの引用した文は「独り問答」、つまり、対話体という文章上の形式を使って、自説を主張したのであって、実際に質問されて、これに答えたわけではないことを、確認しておきたいと思います。

すると風陽は、
自分は尺八を使った禅(吹禅)によって悟りを開いた、
普化、なにほどのものか。
と、あえて、わざわざ主張していると読めませんか?

逆に、もし風陽が悟っていないと自覚していたとすれば、尺八が禅器だという主張は当て推量に過ぎないということになります。

投稿: ペリー | 2007/05/28 16:47

ところでお経とて読経の上手下手があるようです。また節もちゃんとあるそうです。後年の謡曲・浄瑠璃などにも影響を与えているという説もあるとか。
とすると、本曲も読経の節の影響を少なからず受けていると考えられる。
ならば、ちゃんと節を正確に吹かねばならない、音痴ではいけない、ということになるのではないか。

投稿: しんた | 2007/05/28 16:02

 最近「お気に入り」登録させてもらいました。よろしくお願いします。
 ペリーさんが私と全く違う読み方をされていたので、文章というのは難しいものだなあと思いました。

まず、
 「尺八の吹き、ようやく尺八の禅器たるを知る」
 というところは、
「尺八を吹くことで(最終的には)禅的な境地に到ることができる、そういう本質を持っている楽器であるということをようやく知った。私は普化のような悟りは未だ得ていない」
 という意味ではないでしょうか。

「普化尺八を吹くといふとも、唯一時の戯れなり。その業においては予が累年の修行に及ぶことなし。」
 たとえ悟った人でも、楽器という道具を用いる以上、自分の体と一体になるくらいに技術的な鍛錬をしないと、それを通して自他を高い境地に導くほどの演奏はできない。その点では私の方が上である。ここは、プロの演奏家としての誇り。

「今世普化再来して尺八吹くことあらば、必ず予が門下に来て道を問わん」
 普化は明悟の人だから、今さら尺八などを吹く必要もない。でも、あなたが、「尺八の祖は普化だ」などというものだから、その誤解を解くために敢えて言えば、こういう言い方になる。ここでいう「道」は仏道そのものというよりは、「尺八を通してなんらかの悟道に到る道、方法」という意味にとれます。 

「予は未だ知らず」
 普化の悟りには私は到っていない。そのような境地と同じか違うか分からないが、尺八を通してある種の境地には到れる。そのことは間違いない。

 「尺八の根源を知るが故に、かえって普化を知らず」

 というところはちょっと引っかかりますが、以上のように読みました。


投稿: まんぷく堂 | 2007/05/28 09:54

「尺八を吹き、ようやく尺八の禅器たるを知る」
風陽は、吹禅によって悟りを開いたと言っているのではないですか?

「普化再来して尺八を吹くことあらば、必ず予が門下に来て道を問わん」
この「道」は「仏道」あるいは「禅」ですね、尺八が禅器だと言っているのですから。
臨済の、祖師に出会えば祖師を殺し、というのを気取って、普化が現れたら自分が吹禅を指導してやろう、と大きく出た。

「予は尺八の根元を知るが故に、かへって普化を知らず」
「普化の悟りを知りたる者は則普化を知れるなり、予は未だ知らず」
普化が尺八の租だなんて、とんでもない。普化の悟りなんて知ったこっちゃないよ。

> どうして今の本曲吹きはそんな
> ニセ禅の権威を借りようとするのか。

要するに、侍がお稽古事で町人相手にふんぞり返っていただけの話であって、風陽は音楽の深さも高さも、てんでご存知無い。
風陽こそが、禅坊主の真似をして権威ぶった濫觴だと思うのですが、どうなんでしょうか。

投稿: ペリー | 2007/05/28 02:12

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