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2007/05/10

講習会嫌い

私があまり好きになれないのは尺八古典本曲の「講習会」というもの。
カルチャーセンターの初心者向けの講習会は知らない人に対して尺八はこんなものですよ、
やってみませんか、という普及の意味ではそれもありかなと思う。
古典と名前が付く以上、
1回○分○○○円、楽譜は○円、習った後はあとくされなし
というのはどうも違うような気がするのだ。
どうにもお手軽すぎる。
海童道も琴古の本曲も明暗本曲もそんな講習会がけっこうある。
尺八を学ぶ手段なのだから別に問題ないじゃないか、もったいぶっているから本曲は廃れていくんだ。
と他人は言う。

何かが違う・・・

古典というものに私は単なる「音楽」以上のものを見ているのかもしれない。
単に運指などの技術を学ぶという以上のものが古典の中にはあるような気がする。
時間をかけて「師事」してはじめて体に染み込ませられる何かがそこに確かにある。
もしかしたら演奏の中にはほとんど現れないような瑣末なことなのかもしれないが。

時間をかけて学べることはなんだろうか?
師匠と吹きあわせを続けることにより、師匠の呼吸が体に乗り移ってくる。
習い始めは師匠と息継ぎも違い、苦しかったのが、ずっと吹いているとそれがあわせられるようになってくる。
本曲はたった一つの固定された形ではない。師匠の演奏も毎回少しずつ違う。そのときの体調もあるだろうし曲に対する考え方も多少変わってくることもあるだろう。
そんな時々の演奏のぶれの中から、その曲の変えてはいけない核の部分と、多少変わっても差し支えないところが身についてくる。
これは1回の講習会ではわからないし、ましてやCDなどの音源からのコピー演奏では絶対無理なところである。

私が講習会嫌いなのは古典本曲にも「出ている音がすべて」という考え方が嫌いなのかもしれない。
古典本曲は「音の後ろにある何か」までを学ぶことではないだろうか。

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コメント

>一音を一定ピッチで吹けない・オクターブさえ取れない、本曲吹きの先生って結構いるらしくて驚きますものね。
という人に限って、本曲はお経と同じであってほかの音楽とは違う。音は鳴っても鳴らなくてもいいなんていう人がいるから困ったもの。だったら尺八吹かなきゃいいのにと思うんですけどね。

投稿: ろめい | 2007/05/11 22:45

>1回の講習会で○○鈴慕を○○師より習得しなんて

おやおやN氏みたいな人が結構多くいるんですね。そんな状況だから、定年後に尺八を始めても簡単にマスターできるなんて勘違いする人が出てくるんですね。
講習するほうもちゃんと「一回やそこらでマスターできるものではない」と謳うべきです。
ちょっとテーマがずれるけど、やっぱり、「基礎・初級・中級・上級・師範」などといった「尺八吹奏技能検定」とかが必要かもね。一音を一定ピッチで吹けない・オクターブさえ取れない、本曲吹きの先生って結構いるらしくて驚きますものね。

投稿: しんた | 2007/05/11 21:53

>誰も一回の講習会で曲をマスターできるなどとは思ってないでしょう。
ならばいいんでしょうけど、1回の講習会で○○鈴慕を○○師より習得しなんてプロフィールに書いてしまう人もいますからねえ。
そしてよせばいいのにさらにそれを自分の弟子に教えてしまう。
何が伝わっていくのやら。

投稿: ろめい | 2007/05/11 12:52

僕は、講習会は「エサ」だと思ってます。マキ餌です。
で、一人でも引っかかって入門してくれれば良いというスタンスじゃないかしら?
誰も一回の講習会で曲をマスターできるなどとは思ってないでしょう。講習会に参加した人が少しでも本曲というものの理解を深めてくれればそれでいいじゃないですか。

投稿: しんた | 2007/05/11 12:05

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