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2007/10/05

譜面の番人

本曲の世界で楽譜とは何だろう。
守るべき聖典?骨組みを表した参考とすべきもの?

私がいつもよりどころにしている 久松風陽はこういう。
暗譜苦手の私には耳が痛い所。

■ 久松風陽「独言」より
たけに格あり 格は則譜面也 格を破るを法外とす くれぐれも譜面に違事なかれ
■ 久松風陽「独問答」より」
問曲毎に譜面違はず吹ものを上手とせんや
 答然らず、譜面に不違吹者は物覚へよき人にして上手とするに足らず譜面の番人にひとしわづかに三十六曲覚ゆるに難き事やある大方の人たりとも一月に1曲は得べし、上手は曲数にあらず一曲の上にあり、三十九曲は三十六曲なり三十六曲は十八曲なり十八曲は三曲なり三曲は1曲なり1曲は無曲なり無曲は気息なり気息は只虚無なり、然る時は何ぞ曲数にかかはる事あらんや
問然らば譜面に違ふがよきや
 答譜面に違ふは法外なり譜を定めたるは尺八の乱るるを恐れてなり初心より吹嘘己かほしい侭にする時は竹音美しきに聞ゆれども尺八の禅器たるを知る事なし尺八を吹て尺八にあらざるを知らば譜面にかかはるべからず、初心をして尺八の虚なるに導かん為に譜を定めたるものならむ、それを破るは法外ならずや
問汝は譜面に不違吹や
答違はずして又大いに違へり例えば汝も人我も人なり身体髪膚かはる事なくして又大いに違へり、爰(ここ)を以て譜面に違ふと不違との差別を思へ

私の考えはこうである。
まず大前提として本曲の場合、譜面よりも音楽が先にあるものである。
譜面だけからは音楽はできず、譜面が一人歩きすることは絶対に間違っている。
しかし、古人の残してくれた譜面にはその方の音楽のエッセンスが詰まっているものであり、敬意を払うべきものである。
譜面は則であり、外れることはその曲でなくなる。
それでは譜面どおり吹けば音楽ができるかというと、それは音楽ではない。
譜面からの徹底的なアプローチから音楽を創るという方法もあるだろう。
まったく耳から音楽にたどり着く方法もあるだろう。
山に登るにも地図はあったほうがいいだろう。
本曲という音楽の本当のところを山に例えよう。
めざす山へ到達する方法はいろいろな道がある。
もしかしたら天然の勘で無茶苦茶突き進んでも到達できる人もいるかもしれない。
譜面は山に登る助けとなる地図である。師匠は山頂に導くガイドである。
そしてそこに向かって歩くのは誰でもない、自分である。
地図ばかり眺めていても自分で歩かなければ山頂にはつかない。

私の場合、まずは譜面の番人から始めるのもよいかもしれない。

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コメント

>音に集中するには暗譜しかない。
そのとおりですね。
譜を見る時点で、見ることに神経を使っているのではその世界にどっぷり漬かっていません。
曲の中に完全に身をおいたときに見えてくるものというのがあるような気がします。

投稿: ろめい | 2007/10/06 09:20

神如道師は暗譜を基本としています。
音に集中するには暗譜しかありません。

しかし、譜の番人にも立ち帰り見直しも必要です。
色々な人のを聴いて、見直しも出て来ます。

とにかく、吹いて吹いて、日々研鑽でしょうか。

投稿: 虚韻 | 2007/10/06 06:30

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