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2009/04/11

庭で落ち葉を掃くように~先人の演奏を聞きなおす

この所、仕事が忙しかったり、体調が悪かったりしてあまりしっかりと尺八を吹けていない。

ひさしぶりに昔の本曲の録音を聞きなおしてみた。
坂口鉄心さん、後藤清蔵、神如道、滝谷孤瀧、谷北無竹(敬称略)などなど。

感じたことは「普通」であるということ。
曲をとても当たり前に吹いていて、演奏自体が日常になっているように思えた。
庭の落ち葉を掃除をしたりすることの延長に演奏があるように思えた。
当たり前のように吹き飛ばしている。
雑に吹いているというのではなく体に染みついている感じがある。
自転車に乗るような感じだろうか。自転車に乗るt気にわざわざバランスをとろうとか考えず無意識にそうしているという感覚である。

もうひとつは「謙虚」であるということ。
そっと吹いている。
こう吹いてやろうとか、こう聞かせてやろうというところがあまりない。(というかそう聞こえない)
今までこう吹いてきたから、こう吹いている、というような必然がある。
いやらしさがないのだ。
自分の演奏、自分の人間性ををそっとそこに置いておくというような感じで、「さあ見てくれ」というのが少ない。
これがもしかしたら「本曲は本人曲である」ということの意味なのかもしれない。

翻って自分の演奏は、こうしてやろう、ああしてやろう、ここを聞かせたい・・・なんてことがいっぱいある。
故意のフォルテ、ピアノ、不要な間・・・嫌らしいことしているなあ。
本曲の精神性というものがあるとすれば、私はとても遠い所にいる感じがする。
本曲が「うまい」というのは一体何なのかもう一度考え直してみたい。


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コメント

「うまい」演奏が私は嫌いなので、少し話が違うかもしれませんが、下手だけど良い演奏もあれば、そこそこ上手いけれど全然おもしろくない演奏もあるものです。
そのような良い演奏とつまらない演奏の違いの根本には、演奏者がいわゆるソルフェージュの能力を育てているかどうかということがあるような気がします。
あるべき音の高さ、長さ、強さ、勢い、表情、音色がしっかり把握されていれば、余計な表現がはいる余地はありません。

また、自分が良いと思う所を人は聞いていないのが普通ですから、人前で演奏するときには自分の工夫は棄てて構わないと思っています。
一生懸命の工夫がばれた時には結構はずかしいものがあります。

投稿: ペリー | 2009/04/12 17:11

芸は未熟から始まり、試行錯誤と工夫をへて、そして
自己枯淡の境地へと磨かれていくのではないでしょうか。
初めから枯淡の境地へとは入れないですね。
ろめいさんは、迷いながらも一本道かな。

投稿: さすらいの尺八マン | 2009/04/12 03:52

自分なりにいろいろと工夫して演奏しているつもりですが,若い頃とその工夫の仕方が全く違ってきています.

若いころは,人と違ったことをしなければならないという脅迫観念のようなものに追われて,いろいろ「工夫」をしていたようです.今は,最も自然に聞こえるにはどうしたら良いかという工夫をしているようです.

なんとなく演奏した曲は不自然にしか聞こえませんので,私なりに演奏の細部にかなりこだわって,どうしたらその曲の演奏が自然に聞こえるかというための工夫です.その結果として私の演奏が他の方の演奏と似ていることも違っていることもあるでしょうが,それぞれ自然な演奏であれば良いと思っています.

と,云うような,仙人のような世界にはなかなか住めませんが,私が目指しているのはそんなところです.

投稿: Yatou | 2009/04/12 00:22

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