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2011/01/18

「虚鈴」はそんなに遅く吹くものなのか?

神如道師は虚鈴の楽譜の説明に「長管で吹くのが良い」というようなことを書いている。
実際、今の尺八吹きの人は「虚鈴」というと長管で演奏する人が多い。
巨管、3尺を超えるような超長管などでも「調子」「大和調子」「一二三」と並んで「虚鈴」はよく演奏される。
これは長管でバランスのとりにくい高音域が少ないことと、運指が単純であること、テンポがゆっくりできることからだと思っている。
楽譜でも西園流では、最初の「ツーレーウー」まで息継ぎは特に書いていないが、神先生の楽譜では一音ずつ、息継ぎを入れている。
つまり一音一音、置いていくという長管を意識した記譜だと思っている。
私自身もすっかりそういう演奏に慣らされてしまってそういうものだと思っていた。

父は長管といっても2尺3寸くらいまでしか吹かなくて、「虚鈴」も2尺くらいでサクサクと吹く。
なんだか雰囲気ないなあ、と思っていた。

今回、自分でいろいろ吹いてみて、案外、遅くない「虚鈴」の吹き方があるのではと思えるようになってきた。
「虚鈴」はゆったり吹く必要はあるかもしれないが、「遅く」というのとは別物ではないかと。

「虚鈴」では遅く吹くことであきらかにリズムをなくしてしまっている演奏がある。
特に近年の長管ブーム(?)ではますます雰囲気を出そうとするのか、遅くなってきているように思える。
(中にはそんな演奏を自ら「禅的」とか言ってしまう人がいる)
長管でその低音を楽しむと言えばよいかもしれない、永遠の時の流れの表現というかもしれない。
本当にそうなのか。遅い通奏低温のような演奏、それが「虚鈴」の本質なのか。

すっきりした「虚鈴」があってもいい。遅すぎずゆったりとした気分で進んでいく。
旋律の繰り返しは澱まない。

正直言えば、こうやっていろいろ言っているが、まだ、私の中でこの曲「虚鈴」は十分にこなれていない。
人前で吹けるほど、自分で納得できていない。
もうしばらく熟成させる時間が必要である。

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コメント

ろめい様
三味の音の消えている時間的な空間を埋めるのが尺八の役割であるとは、私にはにわかに信じがたい気がいたします。

地唄においては、手事、チラシ以外の部分には概ね唄があります。
唄を活かすのも三味線次第。
糸を活かすのも唄次第。

唄を効かすには、三味線の音の無い空間が必要だったとも言えるわけです。

箏の手付けは後で付けられたもの。
とすれば箏、尺八、胡弓がなくても、すでに曲としては完成していたとも言える訳です。

もしも、唄を歌わない三味線奏者があれば尺八が穴埋めをしてあげる必要もあったでしょう。

音の無い時間的な空間を連続音の出る尺八の音で埋める、それが尺八の役割という発想は、尺八の手前味噌な言い分の様な気がします。

地唄三味線の世界に箏が加わり、さらに胡弓が加わり、胡弓に替わって尺八が加わり、華やいだ演奏形体に変わってきたのが三曲だと私は考えるものですから、尺八奏者は穴を埋めるのではなく、もっと主体的に演奏スタイルを確立するべきだと考えます。

青木鈴慕師は尺八の素吹きを大いに勧められます。
竹一管でも十分に演奏を堪能出来る、素晴らしい地唄尺八の独奏曲がある事を忘れてはいけないと思います。(CDあり)

私が小学生の頃、小曽根蔵太先生の三曲合奏を初めて聴き、ちょっとした感動を覚えた記憶があります。
三味線の音と尺八の音が合わさってコロンコロンと気持ちの良い音が料亭の大広間に響いたのが今でも記憶に残っています。
技巧的に他の尺八奏者とはどこかが違うと感じたものです。

それから随分時間が経過して、父から(尺八は打楽器だ)と言われる小曽根先生の話を聞きました。

尺八は吹かずとも、手穴を指で叩くと、ポンポンと音が鳴りますが、この様な要領で音を刻み、音の出だしで当たりを付けるやり方です。

音は活音でなければならないとも。
遠くの建築現場から聞こえてくる、大工さんが木を叩くカーンと鳴る音を聞いて活音を悟られたとか。

地唄尺八と云う呼び方が既にあるのか?は知りませんが、私は、三味線と調和する尺八を地唄尺八と勝手に呼んでいます。

地唄尺八では、青木鈴慕先生の演奏が素晴らしいと私は思っています。
活音を感じるからです。

投稿: 00 | 2011/02/01 23:51

昨年あるCDでめっちゃ遅い虚霊を聴きました。一方海童道祖の虚霊はかなり速い。
自分なりのフレージングをとりながら吹くとやはり有る程度速くならざるをえない。
フレージングという考え方はもともとの本曲には無いとは思うが、僕はどうしても歌いたくなってしまうのでそのように吹いてしまいますね。百面相や眉芸とともに。

投稿: じ | 2011/01/30 23:44

中学十年生沖田鉄でなく学帽政が、カッコイいかな、と。
お父上には、東海の会(西園会と重なってるんですね、残念)の翌日、またお会い出来たら、と。
對山派のメリは、對山師が雅楽を教えてらして、多くのお弟子がいらしたらしいってこととは関係ないのか、ちょっと気になってましたが、宮川如山師の音源からも、関係ないのか……、
昨年、谷北師を意識して吹かせていただいたら、とくに現代的本曲の方から、世界に通じないと有難い御意見。
自我の殻を硬くする、楽しいイベントでした。

投稿: 学帽政 | 2011/01/30 03:02

学帽政さん
私の父も知っているということは・・・
すみませんどなたでしょうか。
お教えください。

父はじいやというよりは単なる「暴れん坊」になっております。

00さん
話の途中だけつまんで申し訳ありません。
>その三味線との合奏で、尺八は三味の撥音に負けじと?音の頭に当たりをつける奏法を用いるのだと思います。
これは面白いですね。
私は全く違う考え方をしていました。
三弦、筝が弾く音が主体で連続音ができない楽器なので尺八はそれをつなぐのが使命と思っていました。尺八でない場合は胡弓がその役割を果たすように。琴古で言えば五郎先生がこのスタイルかなと思っています。

00さんの所には良い竹がいっぱいありますので是非それを生かしてください。
良い竹は竹に聞いて演奏法を学べることがあります。

投稿: ろめい | 2011/01/29 20:39

ご無沙汰しています。お元気そうでなによりです。

虚鈴は、八寸前後でスッキリと吹くものだと、なぜか思っていました。
長い管も面白いかもしれませんが、それこそ虚鈴の本質から外れて、見せる「曲」になっているような。(何が本質かわかりませんが。)

先日、暴れん坊将軍の再放送を見ていて思ったのですが、お父上はじいやに似てらっしゃるような……、

投稿: 学帽政 | 2011/01/29 01:40

ブログを拝見していて、本曲をもっとやってみようと思うようになりました。

私は三曲を主体に40年にわたり尺八演奏をしてきました。
生田流の曲の大半は演奏したように思っています。

尺八吹きにとって本曲演奏も場合により必要になりますので、鹿の遠音のようなポピュラーな曲はやってきました。
しかし、「本調べ」や「一二三」などの基本的な曲をほとんどマスターしないまま、宗家のCDを真似てやってきました。
技巧的には外曲の手法と大きく違う処はないと思っているのですが、本当の処は未だわかりません。

本曲を吹奏してみて、「本調べ、一二三調」と鹿の遠音では、気分が全く違うと云うことを改めて感じています。
また、三曲ものと本曲を演奏する時の気分の違いを感じています。

鹿の遠音では、音楽性を重視しているためか、チューナーを使用して稽古することも少なくなかったのですが、一二三などの演奏にはチューナーの必要を感じません。
むしろないほうが良いとさえ思うのです。

三曲ものの合奏では、相手が三絃、箏、唄ですから、第一にアンサンブルに重点を置く事になります。
したがって、律、拍子に細心の注意を払う事になります。

地唄ものの主役、三味線は絃楽器でありながら打楽器的な性格があります。
その三味線との合奏で、尺八は三味の撥音に負けじと?音の頭に当たりをつける奏法を用いるのだと思います。
地唄尺八の名手、小曽根蔵太先生は尺八は打楽器だとも言われたそうですが、私には理解出来る気がしています。

本曲演奏は、三絃、箏を意識する必要のない尺八だけの世界、合奏相手がないので、自分の感性で自由に演奏出来るのが本曲の特長なのかなとも思っています。

演奏時の心の姿勢は自分の内面に多くを向け、聴く人への気配りも忘れずに程度は必須の事項でしょうか?

本曲をやっていて今ホントに楽しいです。
何故なら、耳の悪い私がチューナーを用いる必要を感じないからです。
自分に向かって吹けばいいと思うからです。

家には父が遺してくれた竹がたくさんあります。
古童、琴童、交童、虎月、虎竹など、せっかくの銘管も自分の吹き料の琴童以外なかなか吹く気になれませんでした。
しかし、本曲に用いると、どの竹も、それぞれに個性があり実に楽しいです。

ろめい様のブログに刺激をいただき、尺八の楽しみが広がった気がします。


投稿: 00 | 2011/01/27 09:50

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