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2011/01/12

「虚鈴」の神如道の編曲

遅まきながら あけましておめでとうございます。
去年は途中からBLOGの更新をさぼってしまいましたが今年ことは不定期でも何か書いていきたいと思います。

さて、正月に岐阜の父を訪ねた時に、神如道さんの所の「虚鈴」はどうなっているんだ?と聞かれた。
善養寺門下で神如道の古典本曲を習っているが、実は普大寺系の本曲はほとんど習っていないのだ。
改めて、譜面を比較して見てみた。
下の楽譜の画像は途中で切れているので画像をクリックして全体を見てください。

黒字:乙 赤字:甲 青字:或いは甲
Photo


西園流から樋口對山が整曲(編曲)した意図、特徴は、フレーズの繰り返しを増やし、虚鈴の持つ悠久とした世界観をより広げたと考えられる。
曲の終わりもそうだが、決して終止しない、無限に続く感覚というのはほかの曲にないものである。
神如道の編曲は明らかに對山派と酷似しており、伝承は堀口是空からとなっているが、西園流系の人ではなく、明らかに對山派の人から習っていると思われる。
特に西園流ではあったホロホロが省略されていることから、對山派でも對山譜にはホロホロがあり、今の對山派にはない(小林紫山が外した?)ことからも、それ以後の人から学んでいると思われる。
少し不思議なのは、西園流でも對山派でも大きなフレーズ(①から④)を甲乙を変えて繰り返しているのに対し、神如道は⑤の返しの途中から「或いは甲」と指示がある。
これは⑤の最初の1フレーズまでを前半と合わせて一つ完結させた状態と考えたためと思われる。
神如道の曲の頭が乙のフレーズから始めているのは、甲から始める對山派では虚鈴のイメージに合わないと考えたための工夫と思われる。(あえて西園流のそれを聞いてその部分だけ乙としたというわけではない)
この種の工夫は滝落ちの最初も甲から始めるのを乙からにしていることなどからも、いきなり甲というのは神如道の気分に合わなかったのだろう。
余談だが、私は西園流から對山があえて甲から始めるという風に編曲した理由をずっと考えてきた。
普通に考えるなら乙→甲と進む方がはるかに自然で、この違和感をどう解釈するかもやもやしていた。
私なりに考えた結論としては對山はこの曲をこの甲から始めるのではなく、まだ吹いていない前から続いているもの、そして曲の終わりもこれで終わりではなくずっと続くものと考えたからではないか。

虚鈴について新春考えてみたがすべては想像の世界である。
間違いもありそうなので指摘いただきたい。

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コメント

波平です、
おこがましいが、少しだけ…、
ろめいさん、場をお借りするようでゴメンネ、

00さん、
“気合”のことですがね、錯覚しないで下さいよ、
エイヤッ!!
ってのが、気合かというと案外そうでもないのですわ…、

穏やかな“整合性”とでもいうような、泰然自若としたナニかのことを言うておりますですよ、
音楽的には、と、言いましょうか、気持ちって言いましょうか、
わたしは、自分では“音を支える”ってことかな、と、思ったりする、

想いに迷いがありますとね、コレがどうしても支えきれないのですわ、
言わば、気持ちの在り方のことですからね、稽古して鍛えられるものでもないような気がしましてね、
わたしも、迷い迷っておりますですよ、

投稿: 波平 | 2011/01/14 18:50

波平様のコメントを読ませていただき、ろめい様の言わんとしておられる事が少しわかった気がしました。
曲の頭は始まりにあらず、曲の尻尾は終わりにあらず。

音の出だしの気迫にこそ、尺八演奏の醍醐味があるのかも知れませんね。
今、父から言われた言葉を思い返しています。
剣術では、剣を振り下ろし、斬る瞬間の一点に気合いを込める。
ずーっと力ばかり入れて力んでいては人は斬れない。
尺八も同じで、肩の力を抜き力まず、ここぞという時に気迫を込めて息を吹き込む。
波平様のおおせの通り、修業、修養の道ですね。

投稿: 00 | 2011/01/14 10:46

神如道さんところの虚鈴はどうなっている?とお父様が尋ねられた。

同じ趣味を持つ父と子、長年通じ合えた間でこそ成り立っ会話もあるものですね。

もしかしたら、私と父の間でもこのような会話が成り立っていたのかも知れません。

日頃、外曲(地唄)主体の演奏をしている私には、今回の内容は、とてもついていけませんでした。

投稿: 00 | 2011/01/14 00:58

>對山はこの曲をこの甲から始めるのではなく、まだ吹いていない前から続いているもの、その曲の終わりもこれで終わりではなくふっと続くものと考えたからではないか、

至言です、この感覚良くわかります、

例えば、「瀧落し」の場合、
気持ちが先行していないと、吹き出しが上手くいかんのだ、
が、なんとか曲りなりにも吹き出すことを得て、コレを繰り返す段になると、意外と気持ちがスンナリこなれていて、曲趣に入って吹くことを得るような気がする、

で、どうするかだが…、
出だしの繰り返し部分を3度吹き、最初の1度目をカットして、2度目からが本番とすることを考えたのだった、
ICレコーダーの収録の際、の、手法のことですわ…、
収録しましてね、
その後、最初の1度目の部分をカットして、2度目の吹き出しからスタートしたような収録とするわけだ、
誤魔化しですよね、
が、やってみると、これが案外オモロイのですわ、

このゴマカシは、実は、冒頭に繰り返しが無い他の曲でも通用するように思う、
曲の最後のフレーズを少し吹いて後、すぐに冒頭へ戻って吹くやり方です、
で、収録後は、最初の部分をカットするわけだ、

曲趣にスンナリ入る手法としてはおもろいから、わたし、独り稽古の際はコレを再々試みます、
が、が、誤魔化しは誤魔化しです、
わたし、自分のサイトに音をアップして遊んでいますが、アップの物には、このゴマカシ吹奏は使っていません、

いまひとつ大切なものがあることを知っとるからですわ、
最初の出だしの気合のことですわ、
ここには、曲趣に添うこと以上に、重大な意味があるように思う、
ここでは、どう誤魔化しても誤魔化しきれない自分が出ます、
ココを修練するために吹いているのに、ココを捨ててしまってはどうしようもない、

尺八吹奏には修業のつもりもあります、
自分の実力は実力だ、
自分にも他へ向かっても、ゴマカスつもりなんかデンデン無いですからね、

流派別の比較表、とても参考になります、

投稿: 波平 | 2011/01/13 04:45

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