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2011/02/02

三曲合奏における尺八の役割

00さんが私の前の記事に三曲合奏における尺八の役割について意見を述べられておりますので、私も自分の意見を少しまとめてみました。
何が正しいかということではなくどう考えるかということです。

まず地歌において三絃と唄が中心であることは確かです。
そこに筝が加わり、胡弓、尺八が加わったということでしょう。
しかしいわゆる手事ものでは合奏が前提で作られたと考えてもよいでしょう。

下手な尺八ならば、三曲合奏に尺八なんていらない、もっと言えばかなりうまい尺八でも本当にうまい三弦・唄のまでは不要といってもよいと思っています。
手事ものではまだ役割を見いだせますが、端唄ものなどでは、どう吹いてもうまい絃の前では蛇足としかいえないのではと思います。

そんな中で尺八はどんな役割を果たすか。
私は歌を生かす吹き方というのが尺八の生きる道と考えています。
琴古流ではいわゆる8,9割は三絃の手からとっていますから、これで三絃と同じ意味合いでついていけば、三絃にはかなわないわけですから、「意味がない」ことになります。
三絃にできず尺八にできることは連続音です。
またこれもずっと聞かせれば絃の余韻をつぶします。
糸につくというより歌ににつくつもりの、できるだけ隙間のあいた演奏というのが私の理想です。
音数を減らして、必要なところを静かに支えるイメージです。
(もちろんそんな演奏は全くできませんが)

三曲の中でなくてもいい尺八のレゾンデートル。これはよくよく考えて吹かないと、かなり難しいことだと思います。

といっても自分が吹くときにはスポーツになってしまうことが多くていけません。

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コメント

「紅花静覚」は近藤宗悦の関西の幕末から明治くらいの方と思います。
籐のぐるぐる巻きの太めの竹を1本もっていますが、なかなか思うようにコントロールできません。じっくり吹き込めば慣れるかもしれませんが・・・・。

投稿: ろめい | 2011/02/06 16:10

無知で知らないことが多いのですが、紅花静覚とは尺八銘のことですよね。

投稿: 虚韻 | 2011/02/06 15:34

紅花静覚でさすがに三曲を吹く勇気はありません。まだまだUNCONTROLABLEです。

>琴古の歌口は明治時代からと
邦Jですか?最近こちらで読んでいないのですが、明治からということはないと思いますよ。
琴古の竹は小さめなのでなんともいえないのですが。手元に資料がないので。
今のようにくっきりした撥型は明治かもしれませんが、幕末でもあったような気がします。
(誰かわかる人・・・補足を)

投稿: ろめい | 2011/02/06 02:11

100竹兄でしょうか。
三曲の尺八も、最初期は、楽しくあわせる旦那藝だったのではと思いますが、宗悦なんて方もでられたし、大分練られたのかなとも思います。
いまは、恐竜的進化でしょうか。
当時の楽器で三曲を吹いたらどうなるか。
譜は有りませんが、驢鳴竹兄の紅花静覚の実感を伺いたいです。
某誌の読者質問欄に、琴古の歌口は明治時代からと有りましたが、そのあたりをどう思われるかも、ろめい竹兄に伺ってみたいものです。

投稿: 学帽政 | 2011/02/06 00:37

00さん
いつもコメントありがとうございます。

尺八のおいしい所は、ピアニッシモのニュアンスにあると思っています。
もちろん、ピアニッシモを生かすためには、大きな音が場合によっては必要になります。
またピアニッシモを単なる「小さい音」では音量は小さいが、きっちり芯が通っていて、力のある音でないといけません。(自分のこうありたいという願望ですが)

小曽根先生がピアニッシモの達人とのことでぜひ聞いてみたいです。

投稿: ろめい | 2011/02/04 11:12

音の連続性においては、おおせの通り、尺八だけが連続音が出せます。

古来、三曲は糸竹の調べ、このような呼び方があります。
旋律的には、糸が点であれば、竹は線で表現するとでも申しましょうか。
このようにみれば、糸竹の調べとは、点と線が織り成す調べでもあります。

地唄ものになりますと、主役の唄が入ってきますので、尺八の存在意義が問われて来ることになります。

三曲合奏における尺八の果たすべき役割について考えを述べておられますが、日頃の私の思いと共通するところが多く、共感を覚えました。
手事の、糸とのユニゾンの部分など、多少の編曲があってもいいと思います。
唄の部分などは音の濃淡、強弱や、旋律の単調化などで、互いが活きる方法の研究も必要かと思います。
日頃、この様な事を、私なりに少しは取り入れています。
唄のある処は伴奏者としての心得に撤し、器楽のみの手事などでは思いっきり曲の気分に乗って行く。
このような気分のメリハリが大切なんだろうと思います。

尺八演奏家のなかには、所構わず吹きまくる人があります。自分を見失わないよう、冷静な演奏を心掛ける様にしないと、同伴の演奏者のみならず、聴衆にも迷惑になりますね。

小曽根蔵太先生の事ご存知ですか?
父は先生のことをピアニシモの達人とも言っていました。
尺八は熊本の小出とい先生に就き、三味線で学ばれた方です。
小出先生とは、川瀬里子先生と同郷の九州系地唄三味線の名手です。

日比谷公会堂で、若き日の小曽根先生の残月を聴いた時の感動を父が話してくれました。
前弾きの、ツレーレチと始まる一挺一管の竹の音が、広い会場の隅々までリーンと、力強くもピアニシモの音が染みわたり、会場はシーンと静まりかえり、聴衆が固唾を飲んで聞き入っていて、演奏終了後、暫らくのあいだ拍手が鳴り止まなかったそうです。
力強く、気迫あふれるピアニシモの迫真の妙演奏であったろうと推測するのです。
勿論、手事は華やかに流れるごとく。
三味線冥利に尽きる合奏だったことであろう事は容易に想像出来ます。

鈴慕先生は、三曲合奏で尺八が入れば、尺八が主役と言われたそうです。
なるほど、このように割り切れば鈴慕先生の演奏が納得いきます。

小曽根先生と青木先生とはある面、両極端に見えますが、どちらの演奏もすばらしい。
ここは素人のとやかく口出しする事ではなく、好みの問題としか言いようがない。

山口五郎先生の場合、糸方に人気があったとも聞きます。
当然の事ながら音量、音色その他の技巧は超一流だったと思います。
糸方に人気の理由は何だったと思われますか?
このあたりにも、キーポイントがあるのかなと思います。

唄を活かし、糸を活かし、竹も活きる。このような糸竹の活きる所に三曲合奏の妙技があるのでしょう。

(尺八の音量について)

荒木竹翁先生から電話があった時のこと。
気配で尺八の練習中と気付かれたのでしょう。
電話に出るなり、「唄のあるところは静かに、手事はおもいっきり吹いてもいいよ」とアドバイスを受けました。

尺八の譜面には、演奏上の指示がありません。
このような演奏の基本をはっきりと言って貰うと大変ありがたいです。

NHKの三曲の番組で、尺八の音量だけを小さく編集されているものがありました。
番組のプロデューサーには尺八の音量は他の奏者の音量に比べ大き過ぎると映るのでしょうか。

尺八は日頃から音量を抑える練習をしていないと、合奏の時だけ小さく吹こうと思っても、気の抜けたサイダーみたいに、力の無い演奏になってしまいますね。

父は宮城道雄先生と三曲会に同行する事もしばしばあったそうです。

演奏会はすでに始まっていて、会場に入るや、「おやおや、大きな音で吹いておられること」と小さな声で呟かれたことがあったそうです。
他の楽器との音量のバランスを指摘しておられたのでしょう。
当たり障りを意識してか、側近の父にだけ言われたようです。

宮城先生が出向かれる会ですから尺八奏者もかなりの方が演奏されていたはずです。
宮城先生でさえもこの様に遠慮がちだったのですね。
糸方は尺八奏者に遠慮してるいるのか、それとも諦めているのか、律、音量などに意見する人が少ない。
せめて、音量位は言ってくれてもいいのに、と期待するのですが。
お互い、相手のことを知らな過ぎます。
自分のみならず、三曲をより魅力的にするためにこのような議論が必要かも知れませんね。

ジャーナル等で誌上討論会などあれば多く関係者に問題提起が出来そうですが。
ろめい様のブログには、問題提起のテーマが満載です。


投稿: 00 | 2011/02/04 10:52

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